撃墜と再会とは? わかりやすく解説

撃墜と再会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/19 13:52 UTC 版)

徐華江」の記事における「撃墜と再会」の解説

1940年9月12日重慶で第23中隊(長:王玉琨)第2分隊2号機乗機I-15機体番号2310)として出撃したが、既に敵の姿はなかった。その夜成都温江飛行場周囲飛行機分散させるよう命じられ成都へと単機向かった。翌13日遂寧到着し部隊合流着陸して燃料注入した10時45分急遽出撃命令受けた13日1142分、重慶上空第十二航空隊所属爆撃機および零戦13機(中隊長進藤三郎大尉)を確認。だが遂寧飛来し別の編隊攻撃するよう命じられ引き返そうとしたところで零戦追いつかれた初陣動揺していた日本軍とは対照的に経験豊富だった中国軍は、すぐさま編隊立て直して奥地誘い込もうとするが、やがてスピード火力ともに優れた新鋭機の前に次々と撃墜されていった。 徐は最初10分間5、6銃撃を受け、潤滑油タンク穴を開けられた。この油で風防汚れたため窓から顔を出し飛行眼鏡捨てて応戦したが、発射レバー不調思うよう銃撃できなかった。徐は必死に逃げ回って戦線離脱しようとしたが、空戦開始から30分後、1機の零戦(三上一禧二空曹)から銃撃受けた。徐もすかさず三上機に対し両翼に2発撃ち込んだが、撃墜された。機体は田の中に不時着し九死に一生得た。 この空戦零戦初陣であり、全機帰還している。旧式中国空軍撃墜13機、被弾損傷11機(10戦死負傷8人)という大敗北を喫した3日後、白市飛行場戻った徐は黄山空軍病院移され、そこで初め部隊損害状況知った。 徐を撃墜した三上とは1996年8月の特空会に招待された際に、坂井三郎仲介によって電話話したその後文通始め2年後1998年8月15日霞ヶ関ビル33階の一室対面果たした。このとき、徐は「共維和平と書いた一幅の書を贈っている。以降三上訪台するなど、徐が死ぬまで親交深めた

※この「撃墜と再会」の解説は、「徐華江」の解説の一部です。
「撃墜と再会」を含む「徐華江」の記事については、「徐華江」の概要を参照ください。

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