採石場の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 09:06 UTC 版)
現在の採石場のある土地は、江戸時代まで島民が樹木の伐採や開墾など自由に行えたが、明治時代に皇室財産(御料地)とされ、利用が不可能となった。そこで島民は土地の払い下げを何度も願い出て1913年(大正2年)にようやく払い下げが実現した。しかし、その費用負担は当時の菅島村にとって重く、銀行から資金を借りる、村民に細かく土地を分筆して売却するなどの手段で何とかまかなった。採石事業は大正時代より行われていたが、1930年(昭和15年)1月30日、菅島村と鶴田石材の間で石材採取契約が締結された。 1954年(昭和29年)、昭和の大合併の際に菅島村は鳥羽市へ上述の払い下げ地の一部にあたる菅島町429番地の67を提供した。この時点で菅島町429番地の67に対する菅島町内会の入会権は消滅したと市は考えていたが、早稲田大学教授の黒木三郎の『菅島地区入会調査報告書』では「地役入会権が存続する限り、市は入会権の行使を妨げることはできない」としており、実際に鶴田石材は菅島町429番地の67に対する土地使用契約を鳥羽市と菅島町内会の双方と締結している。この経緯により、鳥羽市は登記上の所有者でありながら、緑化に対してあまり強く言えない状態が続いている。 1968年(昭和43年)、鳥羽市は鶴田石材に1m3あたり20円で石材を売却する契約を結ぶが、1980年(昭和55年)12月31日をもって採石を終了することを1978年(昭和53年)3月議会において全会一致で決定した。しかし、1979年(昭和54年)2月と1983年(昭和58年)9月に採石現場で地すべりが発生した。この地すべりでは、付近にある名古屋大学の臨海実験所に落石が直撃しそうになったという。原因が採石によるものである、という結論が出ると市は、地すべり対策を業者に履行させるとして、事実上の採石続行を認めることにした。その後、市議会の終結決議と市当局の契約延長提案が繰り返され、20世紀が終わるまで採石は行政の許可の下、継続された。
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