捜査及び裁判
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赤瀬川の印刷千円札が司直に知れたのは、以下の経緯による。平岡正明、宮原安春らの「犯罪者同盟」が1963年8月に刊行した書籍『赤い風船あるいは牝狼の夜』が猥褻図書の疑いで押収された。すると、その著書内に赤瀬川の作品「千円札の聖徳太子の拡大写真」も掲載されていた。その後、警察が宮原の自宅を捜索すると、「赤瀬川の印刷千円札」が発見された。 そのため、赤瀬川は1964年1月8日、当時起きていた「史上最高の芸術的ニセ札」といわれていた「チ-37号事件」につながる容疑者として、警察の取調べを受ける。だが、担当の警察官からは「不起訴になるだろう」といわれた。 しかし、同年1月27日に、“自称・前衛芸術家、赤瀬川原平”が「チ37号事件」につながる悪質な容疑者であると、朝日新聞に誇大に報道される。 翌1964年、検察庁の捜査が再開し、1965年11月に各印刷所の社長2名とともに通貨及証券模造取締法違反に問われて起訴され裁判となった。なお、検察側は赤瀬川を「思想的変質者」ととらえていた。 弁護人は当時、新左翼系の公安事件を担当して次々に無罪にしていた杉本正純に依頼。また、特別弁護人や弁護側証人には瀧口修造らの美術界の重鎮が名を連ね話題となった。赤瀬川はあくまで、「千円札のニセモノ」ではなく、「千円札の模型」として作品を製造したことを主張した。また、検察は「印刷所社長たちとの共謀」を主張したが、赤瀬川は2人と会ったこともなく、そのような事実はないと否定した。 また「千円札の模型」が芸術だという理解がない裁判官に向けてアピールするため、高松次郎、中西夏之らが弁護人として「ハイレッド・センター」の活動について法廷で説明し、当時における「前衛芸術」の状況について説明した。また、他の関係者の「前衛芸術」作品も裁判所内で多数陳列され、裁判所が美術館と化した。 「前衛芸術」とパロディ的作品の意味が法廷で争われる裁判となり、美術史上に残る裁判となった。 また、裁判が「紙幣に紛らわしい物を作った」ことが問われていたため、関係者で「紙幣に類似する物」を多数収集して、法廷に提示した。 さらに赤瀬川は、千円札を少しずつ露出を変えながら写真にとった一覧表を作成し、「紛らわしさ検査表」と命名。法廷に提示して「どこからがマズイのか」を検察側に問いただしたが、回答はもらえなかった。 1967年6月、東京地裁の一審で、「言論・表現の自由は無制限にあるものではない」とされ、「懲役3月、執行猶予1年、原銅版没収」の判決をうける。また印刷所の社長2名も有罪となった(「伝達による共謀」という理由による)。なお、赤瀬川にとっては「原銅版没収」が一番のショックであった。 赤瀬川は証人として関わった人たちにはお礼として、父親に依頼して1枚ずつ巻紙に筆で礼文を書いてもらい、「木の葉のお札」を同封して、一軒ずつ郵便受けに配ってまわった。 同年7月、赤瀬川のみ東京高裁に控訴するが、1968年11月に「控訴棄却」される。そのためさらに、1969年1月に最高裁判所に上告するが、1970年4月に「上告拒否」され、有罪確定。 なおこの裁判の間、赤瀬川は作品として「大日本零円札(本物)」などを制作した。
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