戦利品から王の権標へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/21 03:34 UTC 版)
「グルンヴァルトの剣」の記事における「戦利品から王の権標へ」の解説
ヴワディスワフ2世は、グルンヴァルトの剣を戦闘で奪ったドイツ騎士団の軍旗と共に、クラクフのヴァヴェル城の宝物庫へ送った。その後、1633年の目録に「2本のプロイセンの剣」と記されるようになるこの剣は、ポーランド・リトアニアの君主の王権を象徴する権標の一部となった。 ポーランド・リトアニア共和国 (1569年–1795年)においては戴冠式で使われたことが分かっており、おそらくそれ以前のヤギェウォ朝でも同様に扱われたと考えられている。二本の剣が2人の君主に贈られたことが転じて、この剣は共和国を構成するポーランドとリトアニアの連合を象徴するようになった。 国王自由選挙で次期ポーランド王に選出された人物は、戴冠式においてシュチェルビェツを取って三度十字を描く。そのすぐ後、一人の司教がグルンヴァルトの剣を王に差し出し、次いで王はそれを王冠領メチニク(太刀持ち)とリトアニアメチニクにそれぞれ手渡す。戴冠式が終わると、王は他の宝物と共にグルンヴァルトの剣をメチニクに持たせて王宮の宝物庫に戻す。こうして、グルンヴァルトの剣は王が2つの国家を支配する象徴となるのである。 シュチェルビェツなど他の宝物と異なり、グルンヴァルトの剣はもともと宝物とするために作られたものではない、15世紀初頭のヨーロッパの騎士が使用した典型的な実戦用の剣であった。しかし後に柄に金や銀でできた装飾がついたり、片方の剣にポーランドの紋章の白鷲、もう片方にリトアニアの紋章の追跡者が付け加えられたりした。 ポーランド・リトアニア共和国の歴史上、グルンヴァルトの剣を使わず戴冠式を挙げた者が二人いる。一人は1705年にワルシャワで戴冠したスタニスワフ・レシチニスキである。彼は大北方戦争中にスウェーデンのカール12世によってポーランド王に据えられた人物で、王の権標はアウグスト2世が保持していたためカール12世から与えられた代用品の象徴を使い、戴冠式後すぐに破棄した。おそらく、この時に用いられた王権の象徴にはグルンヴァルトの剣に対応する物は含まれていなかった。スタニスワフ・レシチニスキはその後アウグスト2世に敗れて廃位された。しかしアウグスト2世没後のポーランド継承戦争の際にレシチニスキの支持者たちがヴァヴェル城から王の権標を持ち出し、チェンストホヴァのヤスナ・グラ修道院に隠した。対立王のフリードリヒ・アウグストに戴冠式を挙げられるのを防ぐためだった。そのため、フリードリヒ・アウグストは1734年に自身の持つ宝物を使って戴冠式を挙げ、ポーランド王アウグスト3世となった。彼が用いた宝物の中には、抜身の2本の儀礼用の剣、名前不詳の目撃者の記録によれば「2本の大きなエペ」があった。これはポーランドとリトアニアを象徴するグルンヴァルトの剣の代用品である。この時使われた「ポーランドの剣」は、柄頭が鷹の頭の形、クロスガードが鷲の爪の形、刃にポーランドの紋章が描かれた小さな盾があしらわれていた。一方の「リトアニアの剣」は、柄頭がライオンの頭、クロスガードがライオンの脚、刃にリトアニアの紋章が描かれた盾と、その上に大公の帽子があしらわれていた。この二本の剣は、1736年に行われたアウグスト3世の父アウグスト2世の3回忌の式典でも使われた。その後、この剣は彼らの母国ザクセンの首都ドレズデンの武器庫(リュシュトカンマー)に収められ、19世紀末まではそこで見ることができたが、その後行方不明になった。
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