慶派以外
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吉野水分神社玉依姫命像(奈良県吉野郡吉野町、国宝) 女神像と称しながら、袿を着て、頬にはえくぼが刻まれ、黛をつけ、唇をかすかにひらいて鉄漿をつけた歯をみせており、当時の高貴な女性の姿を写した坐像と考えられる。像内に1251年(建長3年)の銘があり、寄木造の技法からみて仏像作家の手になるものと考えられ、慶派の可能性もある。 浄瑠璃寺吉祥天立像(京都府木津川市、重要文化財) 復古的な像の一例であり、入念な彩色は古風にみえるが、豊満な顔や手、衣服の写実的表現に鎌倉時代らしさを看取することができる。ヒノキ材の一木割矧造で截金も施される。制作年代は1212年(建暦2年)である。仏教尊像としての威厳と、現実の女性を思わせる官能美が調和した傑作として知られる。 伝香寺地蔵菩薩立像(奈良県奈良市、重要文化財) 寄木造で玉眼嵌入。像内納入の願文によれば83歳の妙法という尼が主となり、仏子貞隆、尼唯心とともに亡母の追善供養や来世の男子への転生祈願などさまざまな願いをこめて1228年(安貞2年)に造立された。寄木造で玉眼嵌入。作者は善派の善円。別名「裸地蔵」とも呼ばれる裸形着装像であり、ふだんは本物の袈裟が着せられる。着せ替え人形のように袈裟の交換を日々の慰みとしたことが考えられる。また、胎内に10センチメートルの十一面観音像や緑瑠璃製舎利壺に納めた2センチメートルの薬師如来像などの納入品が納められており、当時の多様な信仰の一端を示している。 高徳院阿弥陀如来像(神奈川県鎌倉市、国宝) 通称「鎌倉大仏」あるいは「長谷の大仏」として有名な像。『吾妻鏡』によれば1238年(暦仁元年)に僧浄光の勧進によって造仏が開始し、1243年(寛元元年)に供養があったとされるが、同時期に書かれた『東関紀行』ではこれを木仏と記している。大風などで倒壊したため銅造で再び造られたものと考えられ、それが『吾妻鏡』中の1252年(建長4年)に金銅八丈の釈迦如来の鋳造をはじめたという記事であろうと考えられる。完成年は不明だが、これが現在の大仏であり、完成当初は金箔が施されていた。初めは仏殿があったが1369年(応安2年)に倒壊し、以後、露仏となっている。素材は日宋貿易などで得た中国銭であったことが判明している。与謝野晶子が「美男におはす」と詠んだことでも知られる。 明月院上杉重房像(神奈川県鎌倉市、重要文化財) 前代までにはみられなかった武人の俗体像である。作者不詳ながら、人物の風貌を写実的に表現した木造彫刻の傑作とされる。上杉氏の祖上杉重房は鎌倉時代中期の人物で本姓は藤原氏、宗尊親王が幕府6代将軍に就任する際に近侍した。親王より丹波国上杉荘を賜ったことから上杉を称し、親王帰洛後も鎌倉幕府に仕えた。なお、武人の俗体像としてはこの像のほかに、建長寺の北条時頼像、東京国立博物館の伝源頼朝像、満昌寺の三浦義明像などがある。
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