御館の乱
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天正2年(1574年)に隠居し、家督を嫡男の景広に譲り、自身は大胡城へ入った。天正6年(1578年)、謙信が没すると出家し安芸入道芳林と号す。御館の乱に際し、子の景広と共に上杉景虎を支持する側となり、越後国内で上杉景勝と戦う。本拠の北条城などを落とされ景広は戦死。越後での勢力を失った高広は天正7年(1579年)8月、武田勝頼の傘下に入った。実父ともされる北条高定も、景勝に殺害されたと伝わる。
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御館の乱
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弘治3年(1557年)、安田景元の子として越後国安田城で生まれる。幼少の頃から小姓として上杉謙信に仕え、弥九郎の名を与えられる。 天正6年(1578年)、謙信の死後に起こった御館の乱では、兄・顕元と共に上杉景勝に味方する。しかし顕元は、戦後の論功行賞において景勝の直臣・上田衆が恩賞を独占したことにより、猛反発する新発田重家や堀江宗親(上杉景虎側だったが顕元が味方に引き入れた)らを仲裁するも、失敗し責任を感じて自害したため、能元が家督を相続する。天正8年(1580年)9月25日、本領を安堵され、さらに堀江宗親の旧領も与えられている。 天正10年(1582年)から数年に渡って起こった新発田重家の乱の鎮圧に参加。その中の放生橋の戦いにおいて殿軍を務めた際に片足を負傷。終生治ることのない後遺症が残ったため、以後「跛上総」と渾名された。
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御館の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/18 03:02 UTC 版)
上杉謙信死後の跡目争いである御館の乱において、同一家中による激しい戦闘が行われた悲劇の城である。旧城主である柿崎家の当時の当主であった柿崎晴家は乱勃発当初から上杉景虎を支持(支持表明後、樋口与六らにより抹殺)。また、上杉景勝から柿崎家復興を約束を受けた旧臣は晴家の子である柿崎憲家を立てて景勝側に付いた。この事により旧臣が2派に分かれて戦うこととなった。(なお、この時の柿崎家は、先代柿崎景家の織田信長内通疑惑による死罪に関連し、家名は残せたものの改易された上に閑職にもつけないと言う、事実上の断絶状態であった。) 当時は同族での争いや家臣の分裂は珍しいものではなかったが、両派共にお家復興という大きな名目があった為、破れた側の景虎支持勢が全滅すると言った、同種の家中での戦いの中ではかつて無いほどの激しい同士討ちとなった。 勝った憲家は約束どおり柿崎家を復興させ、旧領に復帰した。 城山山頂(本丸跡)には双方の遺体を葬ったとされる塚と祀った祠が残されている。
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