庶民院図書館勤務の初期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 05:19 UTC 版)
「アースキン・メイ (初代ファーンバラ男爵)」の記事における「庶民院図書館勤務の初期」の解説
その後は高等教育に進学することなく、16歳で庶民院図書館(英語版)の図書館員補佐(assistant librarian)になった。当職への着任は、庶民院議長(英語版)チャールズ・マナーズ=サットン(英語版)の推薦を受けてのことである。 庶民院図書館は1818年に設立されたばかりであり、メイが図書館員補佐に就任したときの司書はトマス・ヴァードン(Thomas Vardon、在任:1831年 - 1867年)だった。ヴァードンが1835年に述べたように、当時の庶民院図書館は主に「議会の儀礼、財政、法案の審議段階、法令の内容」などの情報を議員に速やかに提供することをミッションとしており、この一環で庶民院日誌(journal)に索引をつける業務も手掛けていた。日誌とは、法案の請願書や法案審議の経緯と採決結果、主要な出来事などをとりまとめた文献である(審議中の演説や討論の詳細は含まない)。庶民院日誌の索引はジェームズ1世治世(17世紀初期)の頃より、議会における慣習法の源として重要な位置づけにあった。 この索引付け業務にメイも携わることとなり、この頃より議会規則について学ぶようになる。この経験が後の『アースキン・メイ』執筆の糧となったとされる。ヴァードンが図書館司書に、そしてメイが図書館員補佐に就任した1831年時点では、1820年から1829年までの暫定索引がヴァードンの前任者ベンジャミン・スピラー(Benjamin Spiller)によって作成済の状況にあった。しかし、その後の索引付け業務は以下のとおり、幾度となく中断せざるをえなかった。 まず、索引作成はスピラーの離任でいったん中止されている。続いて1834年10月には議会大火(英語版)によって図書館の建物が焼け落ちる事件が起こった。過去の貴重な法案請願書など日誌索引付けの対象物を火の粉から守るため、図書館員たちは機転を利かせて窓から放り投げるも、蔵書の4割とほとんどの写本が失われた。だが、情報管理という責任は庶民院図書館に残されており、1836年に庶民院議長ジェームズ・アバークロンビー(英語版)が改めて索引作成をヴァードンに命じた。ところがその矢先に、国王ウィリアム4世が死去してヴィクトリア女王が即位することになったため、索引作成は再び中断され、1839年8月にようやく完成した。1820年から1837年の庶民院日誌索引では"PREPARED by Thomas Vardon"と書かれており、メイの関与は明示されなかったが、庶民院日誌局(House of Commons Journal Office)所蔵の索引では手書きで"Thomas May &"とつけ加えられていたという。 個人としてのメイはこの時期、庶民院図書館勤務に在籍のまま、1834年6月に高等教育機関である法曹院のミドル・テンプルに進学している。進学から4か月後に発生した議会大火は、メイに庶民院日誌の勉強に集中する機会を与え、矛盾する可能性もあるほかの情報源を排除することができたとされる。1838年には弁護士資格免許を取得し、索引付けを完成させた1839年の同月には公務員の娘ルイーザ・ジョハンナ・ロートンと結婚した。
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