庶民院書記官補佐として
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「アースキン・メイ (初代ファーンバラ男爵)」の記事における「庶民院書記官補佐として」の解説
1840年代中頃から50年代中頃にかけて私法律案請願審査官などを務め、各種改革を提唱していたメイだが、その後の昇進は円滑にはいかなかった。『アースキン・メイ』の序文で献呈され、メイの提言の耳ともなっていた庶民院議長のショー=ルフェーブルは、1850年にメイを庶民院書記官(英語版)(庶民院の議事運営に関するアドバイザー職トップ)に推挙するも見送られている。これは1850年に庶民院書記官現職のジョン・ヘンリー・リー(John Henry Ley)が急死したことを受けての後任人事であるが、首相でホイッグ党首であったジョン・ラッセルが同じくホイッグ党員であった初代準男爵サー・デニス・ル・マーチャント(英語版)を推したためである。後年になって、ショー=ルフェーブルはこの出来事を回想し、メイへの手紙で「単に友人のため、政府を長年支持してきたために彼を任命したというラッセル卿の行動はなかなか正当化できない」と述べた。 ショー=ルフェーブルはメイを庶民院書記官に任命できなかった代償としてせめて庶民院書記官補佐(clerk assistant)への任命だけでも確保しようとしたが、書記官補佐のウィリアム・リー(William Ley)は頑なに辞任せず、1856年にようやく辞任するも書記官第二補佐(Second Clerk Assistant)で自身の甥にあたるヘンリー・リー(Henry Ley)を後任に推薦してショー=ルフェーブルを激怒させた。最終的にはショー=ルフェーブルが首相ラッセルを説得して、1855年12月にメイの任命を認めさせた。 庶民院書記官補佐として、1861年の庶民院業務特別委員会と1869年の公務進行両院合同委員会(Joint Committee on the Despatch of Business)でも提言をしたが、いずれも成功を挙げられず、1869年の提言にいたっては「1850年以降、すでに多くの委員会が審議を進めたため、議事規則の改進はほぼ議論しつくされ、改進できるところはほとんど残されていない」と皮肉を放ったほどであった。 庶民院書記官補佐以外では、庶民院書記官補佐の在任中の1860年5月16日にバス勲章コンパニオンを授与され、1866年7月6日にバス勲章ナイト・コンパニオンを授与された。1866年11月22日、法律摘要委員会(Digest of Law Commission)の委員に任命された。また、1866年から1884年まで成文法改正委員会(英語版)(Statute Law Revision Committee)の議長を務めた。 またメイは業務に取り込む傍ら、著作の執筆も進め、書記官補佐の在任中には『アースキン・メイ』を第6版まで改訂出版した。
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