庄之助襲名の経緯とは? わかりやすく解説

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庄之助襲名の経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/05 03:23 UTC 版)

木村庄之助 (18代)」の記事における「庄之助襲名の経緯」の解説

三役時代大正10年1921年5月場所7日目横綱大錦前頭筆頭三杦磯の取組を捌いたがこの時に行司あるまじき大失態犯した仕切り直すこと30回、54経過当時仕切り制限時間無し)してようやく両者立ち合った取組がいよいよ佳境入ろうかという所で大錦取った廻しが三杦磯の胸まで延びたのを見て朝之助が廻し待ったをかける実際に締め直す程に緩んでおらず、控え大関常ノ花に「分けだ」と言われた三杦磯は廻し締め直し終わった所で土俵から降りこれを見て大錦降りたその後どうにか水入り前を再現することにはなった廻し締め直したことで再現不能勝負検査役等もそれぞれに異な意見述べる間にあろうことか朝之助は両力士どのように組んでいたか忘れてしまい勝負再開どころではなく、4人の勝負検査役加え三杦磯の師匠峰崎親方(幕内行司木村銀治郎)、さらに相生警察署署長まで出て50分にもわたり協議が行なわれるという紛糾の末、どうにか再開はしたがその後土俵中央膠着した際の勝負検査役水入り指示誤解した朝之助は三杦磯の後ろ廻し引っ張って合図を出すと三杦磯は引分合図だと思って土俵降りる大錦はわけがわからず怒って朝之助を睨みつけた。結局決着をつけることが不可能として引分になってしまった。大錦常ノ花行司行動勝負検査役の対応の悪さとそれが招いた結果に大激怒したが、勝負検査役謝罪して何とか場を納めた自身失態のために勝負台無しにした朝之助は進退伺い提出する行司勝負不可能にさせると言う前代未聞事態、しかも前場全勝優勝しこの場所もここまで全勝優勝候補筆頭とされた横綱大錦取組であったことにより厳し処分求める声が強く中には「朝之助から軍配取り上げて顔触れ専門にさせろ」という意見であった。これは以前より朝之助が「裁き今一だが顔触れ名人」と評されていたことによる結局協会からの処分翌日から千秋楽まで出場停止決まった。 しかしこれだけ大失態犯しながらこの場所5日目差し違い理由17代庄之助が突如廃業12伊之助11月引退したために立行司空位となったことで次の大正11年1月場所から伊之助飛ばしていきなり18代庄之助を襲名し首席行司務めることになった17代庄之助廃業理由となった取組もまた大錦のものであり奇しき因縁いえよう

※この「庄之助襲名の経緯」の解説は、「木村庄之助 (18代)」の解説の一部です。
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