庄の又工区
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/13 09:01 UTC 版)
庄の又工区は本坑1,300メートルとそこに取り付く斜坑114.8メートルからなり、熊谷組に対して発注された。 1972年(昭和47年)11月に斜坑に着手し、1973年(昭和48年)3月に本坑位置に到達した。また斜坑の本坑との交点の近く、本坑から13.5メートルの横坑を伸ばして、そこに地上との間に高さ16.7メートル、直径1,600ミリメートルの細い立坑を掘削し、そこに直径300ミリメートルのコンクリート投入管を設置して、トンネル内に材料を供給するために利用した。本坑では、斜坑より大宮方では当初底設導坑先進工法を検討していたが、地質が悪くサイロット工法に変更された。1973年(昭和48年)3月から大宮方へ向かって工事を始めた。土砂の流出が複数回あり、薬液注入と水抜きボーリングにより突破して、1975年(昭和50年)2月に君帰工区境界に到達した。 斜坑の本坑到達位置より新潟方では、土被りが0 - 8メートル程度と極めて浅くなっており、庄の又川や岩の沢川の河床とすれすれになっているため、川を一時的に付け替えた上で、開削工法を採用した。また県道直下の区間についてはパイプルーフ工法を採用した。開削工法を採用した260メートル区間については、庄の又川を仮付け替えしながら1期の110メートル区間を開削し、覆工終了後に埋め戻して庄の又川を元の位置に復旧した。続いて2期の80メートル区間を開削し、埋め戻したのちに岩の沢川の仮付け替えを行った。そして3期の70メートル区間を開削して、埋め戻したのちに岩の沢川を復旧した。 工区境界最後の40メートル区間についても、当初は開削工法を考えていたが、上部の県道の付け替えや川の切り回しが困難であったため、トンネルを掘削する方式に変更された。メッセル工法(矢板をジャッキで地山に圧入して、その内側を掘削する工法)も検討されたが、玉石を含む地質では沈下や崩壊を防止できないと判断され、薬液注入を併用したパイプルーフ工法が採用された。トンネルのアーチ部を取り巻くように何本ものパイプをボーリングマシンを使って挿入し、これによって上部を支える形で中の掘削を行った。 路盤コンクリートの打設まで終わって庄の又工区が竣工したのは、1976年(昭和51年)3月であった。
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