六日町南工区
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/13 09:01 UTC 版)
六日町南工区は本坑1,510メートルとそこに取り付く横坑155.0メートルからなり、大成建設に対して発注された。 1973年(昭和48年)7月より、四十日横坑に着手した。横坑掘削中、土砂の流出が繰り返され、薄い土被りのために地表が陥没する問題まで起こしたが、コンクリートを投入して復旧し、水抜き導坑を掘って先に水を抜いてから全断面に切り広げる工法を採用したことで順調に掘削できるようになった。1973年(昭和48年)12月に本坑位置に到達した。 本坑は、土被りが全体に薄く地表に川が点在し、鉱泉が噴出している場所もあるため、掘削時の異常出水やメタンガスの発生などが予想される場所にあった。調査の結果、サイロット工法を全区間で採用することになった。さらに171 km 209 m付近では北越北線赤倉トンネルと0.90メートルの間隔で立体交差(塩沢トンネルが上を通る)し、172 km 000 m付近では川の4.0メートル下をくぐるなど、特に慎重な工事の必要な場所でもあった。サイロット工法により、側壁導坑を先進させる形で掘削したが、土砂の流出が繰り返され、導坑の全断面掘削を断念して水抜き坑を先進させることになり、さらに薬液注入を繰り返し、本坑から下り列車に対して左側に水抜きの迂回坑を388.0メートルにわたって掘削するなど苦心を重ねることになった。土被りが4メートルしかない一の沢川と四十日川は、当初は開削工法も検討していたが、川や道路を付け替える場所の不足などの問題があり、結果的に薬液注入で地盤改良を行ってサイロット工法で突破した。 赤倉トンネルとの立体交差は、上越新幹線大宮起点171 km 208 m 80地点、北越北線六日町起点4 km 481 m 54地点で間隔は1メートルない条件であり、交差角は74度である。塩沢トンネル建設時点で、既に交差地点付近の赤倉トンネルは覆工まで施工が完了している状況であった。塩沢トンネル建設に際して、何らかの対策を取らなければ、赤倉トンネルは破壊されてしまうと予想された。そこで赤倉トンネルを事前に改築する案、塩沢トンネル下部に導坑式で桁を施工して、それによって塩沢トンネルを支える案、同様に桁を施工した上で、塩沢トンネルを剛性円管断面にして横断する案、の3つの案を比較した。結果的に最初の赤倉トンネル事前改築案が採用され、北越北線を施工していた鉄道公団東京支社に委託して改築が実施された。塩沢トンネルの荷重がかかると計算された延長35メートルにわたり、トンネルを切り広げて支保工を建て込み、吹付コンクリートを施工して補強した。その後、塩沢トンネルは無事にこの区間を掘削した。結果的に、塩沢トンネルのインバート(床面のコンクリート)の最下部と、赤倉トンネル覆工の最上部の間隔は0.895メートルとなった。 本坑は、寺尾工区境界に1975年(昭和50年)8月に、庄の又工区境界には1976年(昭和51年)4月に到達した。路盤コンクリートなども打設も含め、1977年(昭和52年)5月に竣工となった。
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