六日間の戦役まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/09 14:23 UTC 版)
1月から2月の1週間目まではフランス北東部での戦闘に決着がつかなかった。1月29日のブリエンヌの戦い(英語版)ではナポレオンがブリュッヘルの基地を奇襲して、あと少しでブリュッヘルを捕虜にできたが、ブリュッヘルは翌朝に数マイル東、バール=シュル=オーブの隘路を見張ることができる強固な陣地に撤退した。ブリュッヘルはそこでオーストリア軍の前衛と合流した後、後ろの通路が詰まっていて撤退が無理なことを鑑みて会戦を選択した。2月2日の正午頃、ナポレオンが攻撃を仕掛けたことがラ・ロティエールの戦い(英語版)の幕開けとなった。天気がひどく、地面も進みにくかったためフランス軍の主力である大砲はほとんど使えず、さらに雪が度々吹き荒れたため多くの縦隊が方向感覚を失い、コサック部隊の猛攻を受けた。戦闘の損害自体はフランス軍より同盟軍のほうが上だったが、ナポレオンはレスモン(英語版)、続いてトロワに撤退、オーギュスト・ド・マルモンを敵軍の監視に残した。 道路の状態がひどく、またシュヴァルツェンベルクの参謀本部が不活発のままなこともあり、追撃はなされなかった。しかし、ブリュッヘルは4日にこの不活発さに苛立ち、所属国プロイセンの国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の許可を得てマルヌ川に移動した。ペーター・ルートヴィヒ・フォン・デア・パーレン(英語版)のコサック部隊がブリュッヘル軍の左翼の守備とオーストリア軍との連絡役としてつけられた。 パーレンの援護で安全と考えたブリュッヘルはヴィトリ(英語版)からマルヌ川沿いの道を進軍、各縦隊は悪天候もあって食料調達と雨宿りがしやすいよう分散して進軍した。ブリュッヘル自身は2月7日/8日の夜には偵察部隊に近くなるよう左翼にあたるセザンヌ(英語版)にいた。残りの軍勢はエペルネー、モンミライユ(英語版)、エトージュ(英語版)に分散しており、援軍は進軍の最中でヴィトリ近くにいた。 その夜、ブリュッヘルの参謀本部は再び奇襲を受け、さらにナポレオン自身率いるフランス本軍が全速前進して、分散していたブリュッヘル軍を攻撃しようとしていた。しかも、パーレンのコサック部隊が48時間前に撤退したため、ブリュッヘル軍の左翼はがら空きだった。ブリュッヘルはエトージュに撤退して各分遣隊を結集させようとした。
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