帝京大学総長親族と事件の「責任」
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「帝京大学医学部裏口入学事件」の記事における「帝京大学総長親族と事件の「責任」」の解説
これだけ世間や国会で騒がれながら、帝京大学が最終的に行った事後処理は、「帝京大学特別調査委員会」が2002年7月15日に文部科学省に提出した「調査報告書」の内容を超えるものではなかった。 確かに帝京大学への制裁措置として、文部科学省は2002年7月には、「97-2001年度に国庫から交付した経常費補助金計約63億8500万円の返還を求める方針を固めた。返還額は加算金(年約11%)を含めると80数億円に上る」との報道に見られるように、補助金の停止などを検討していた。また実際にこうした措置があったことは帝京大学の上記同年7月の「調査報告書」からも読み取れる。この「調査報告書」では、「寄付金をめぐる問題」で「補助金辞退額16億円、新学部学科申請辞退による期待収入の減少40億円」「帝京育英財団に対する追徴課税27億円と金銭面だけでも合計83億円」の「代償」が生じたと報告されている。 さらに帝京大学によれば、総長は「(裏口入学の事実を)知らないと言いながら監督責任を感じ退任」したのであり、裏口入学への総長の関与は最後まで否定した。またこの7月の報告書に先立って、2002年1月には冲永総長は帝京大学理事長職を次男に譲っている。これをもって7月の「調査報告書」は、「刷新された管理体制がすでに確立され」たと主張したが、結局それは「優秀な冲永荘一総長が手腕を発揮し帝京大学グループが将来にわたって立派なものとなるよう努力されることを期待する」という「調査報告書」末尾に記された方針を、事件後も帝京大学がまったく変えなかったことを意味した。なぜならこの理事長交代は、表向きにはトップの交代に見せながら、実際はガバナンス体制を変えることなくしばらくは総長自らの支配を継続させる仕組みでもあったからである。 「冲永総長は帝京大の理事長職を今年(2002年)1月、次男の冲永佳史氏(29)に譲ったが、『実権はまた冲永総長が握っている』というのが帝京大関係者たちの一致した見方だ。」 帝京大学グループと長年関わってきた弁護士の談としても、理事長交代は「茶番にもならない」とされ、「次男が理事長になっても、帝京はなにも変わりはしない。これで世間にアピールしたつもりなのでしょうが、いまさら惑わされるわけがありません。これまでどおり、冲永荘一氏が帝京大グループのトップの座に居座り続けることでしょう」とも報じられた。 加えてこのやり方は、総長が自らの責任を認めることなく、総長退任を以って世間による事件への批判をかわし、しかもそれを契機として帝京大学グループの運営を自らの子息に引き継がせる機会として事件を役立てることでもあった。実際、総長はかねてより、実子への権限移譲の時期を見計っていたところ、事件がその「奇貨」として働いたと書かれていた。 そして2002年10月には帝京大学学長職も総長次男に継承されることになった。このとき「長男の荘八氏」については、「父親から学長就任を打診されるが、冲水一族の2人が理事会入りするのを文科省に反対された為、取り止めになった」ともされている。 こうして2002年12月、裏口入学の口利きによって得た資金を脱税したかどで総長の実弟が逮捕されると、それを機に東京国税局などの操作は帝京大から一斉に手を引いた。 帝京大から国税などが手を引くとマスコミも一斉に帝京大について報道しなくなり、文科省も事件について問わなくなった。これほど騒がれ、「当初から、大マスコミの記者らは、最高責任者らの身柄の拘束も時間の問題だと言い切っていた」事件であったが、その核心が未解決のまま、一定の時期を境に潮が引いたように問題にされなくなった。総長の実弟と長男とをトカゲの尻尾のように切り取って「責任」をとらせただけで、帝京大学本体のガバナンスと、「責任」者以外の一族支配体制には第三者による刷新がまったく手つかずのまま、元総長の体制が維持、継続されることになった。この一連の帰結は「大山鳴動鼠一匹」とも皮肉られた。これは「反省はなく、同じスキャンダルを平然と繰り返してきた」と指摘される帝京の体質の継続を再び許すことでもあった。
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