市の創設と中世後期の暮らし
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/18 14:27 UTC 版)
「ブロムベルク」の記事における「市の創設と中世後期の暮らし」の解説
現在の市域は、6世紀から8世紀に、ザクセン人の拡張に伴い入植がなされた。この頃に、ヘレントルプ、イストルプ、ヴェレントルプなどのように、名称が「トルプ」(-trup) で終わる集落がこの地域に形成された。「-trup」は「-dorf」(村)を意味し、ブロムベルク盆地全域であわせて7つの集落がこの語尾の集落名を有している。 11世紀に住民の数は著しく増加した。農民たちはそれまで原始的な方法で農業に従事していた。それでは土地の収益性の高い運用は望めなかった。中世盛期、鉄製の車輪付き鋤や三圃式農業、水車の導入により、こうした状況に変化が訪れた。効率の高い収穫が彼らの栄養状態を改善した。これによりリッペ地方も領主階級の興味の的となっていた。新たな権力者として、リッペ貴族家、シュヴァーレンベルク伯、シュテルンベルク伯が登場した。初めは単なる砦として用いられていたブロムベルク城を、彼らが造り上げていったと推測されている。 都市の創設は、1231年から1255年までの間にベルンハルト3世によってなされた。市の創設に関する史料は、ゾーストのフェーデによって失われ、詳細な日付は分かっていない。「すでに長らく」都市権を保持している旨を記した1283年のものと推定される文書が存在している。ブロムベルクはリッペ領主家にとって、明らかに特別な重要性を持つ街であった。この街は中世に重要だった3本の交易路が交差する地点にあったからである。ゾースト、ホルン=バート・マインベルク、ブロムベルクを経由してハーメルンに至るケルン街道、カッセル、ヴァールブルク、シュタインハイム、ブロムベルク、リンテルンを経由してブレーメンに至るフランクフルト街道、オスナブリュックからヘルフォルト、レムゴー、ブロムベルク、ヘクスターを経てテューリンゲンに向かう街道であった。これらの街道は状態があまり良くなく、一日の行程はわずか 25 km から 50 km 程度であった。それに加えて、広い森では盗賊団が交通を脅かしていた。ブロムベルク地域の街道は、6本の監視塔で護られていた。 本市は、平行して延びる3本の道路が市門の前で一点に集まる形の伝統的なドライシュトラーセンシステム(3本の道路システム)に基づき建設されている。広さ 11.3 ha の市内に 1,600人が住めるよう計画された。建設から約 600年を経た1860年になって初めて市域は境界を超えて東に向かって拡張していった。ジーモン1世(1275年 – 1344年)はブロムベルクをその住居に選び、城砦を宮殿に改築した。彼とその後継者はブロムベルクとブラーケの居城間を頻繁に行き来した。都市と城は環状壁で囲まれ、さらに城は土塁と壕で護られていた。西および南側は急勾配が天然の護りとなっていたが、東および北向きの都市は壁、壕、土塁、イバラの生け垣で囲まれていた。さらに6本の防衛塔、門の前の空壕、都市防衛軍が設けられていた。こうしたと市防衛施設のうち、ニーダー・トーア(直訳すると「下の門」)と市壁の一部が現在も遺っている。 ブロムベルクは、オーバーシュタット(上の街)とウンターシュタット(下の街)の明らかに分かれた2つの地区からなっている。オーバーシュタットには主に手工業者が、ウンターシュタットには主に都市農民が住んでいた。オーバーシュタットとウンターシュタットは分離された放牧地を有しており、市の機関はオーバーシュタットとウンターシュタットが正確に同数になるよう配分されていた。オーバーシュタットの子供たちにはカントールが、ウンターシュタットの子供たちには教会の聖具室係が教育を授けた。ブロムベルクの経済は、他の都市と同様に、ツンフト組織によって維持されていた。ブロムベルク盆地のほぼ全ての手工業がこの街に集中し、粉挽き、鍛冶屋、車職人、靴修理、衣服修理だけが市街の田舎に住んでいた。
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