市の創設と初期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 07:55 UTC 版)
現在アトランタという都市が存在しているこの地には、古くはスタンディング・ピーチツリーと呼ばれる、ネイティブ・アメリカンの村があった。1822年にチェロキー族とクリークス族がヨーロッパ人入植者に土地を割譲し、この地にディケーターという名の入植地が建設された。その後間も無く非公式の取引所がヨーロッパ人の入植地へと発展し、スラッシャービルと名付けられた。 1836年12月21日にジョージア州議会はこの地と中西部との通商ルートを提供するため、アパラチア山脈を越えてテネシー州チャタヌーガへと通ずるウェスタン・アンド・アトランティック鉄道の建設案を可決した。一方、この一帯に住み着いていたチェロキー族は、1830年に成立したインディアン移住法の結果、強制移住によって土地を追われた。ネイティブ・アメリカンの去った土地には、鉄道を敷く余地が残された。1842年、マーサズビル (Marthasville) と名を変えたこの町には6棟の建物が建ち、30人の住民が住んでいた。その後も幾度か町名が変わった後、ジョージア鉄道の主任技術者エドガー・J・トムソンは、この地をアトランティカ・パシフィカ (Atlantica-Pacifica) という名に変えることを提案した。この名はすぐに「アトランタ」に縮められた。住民はこの名に賛同し、1847年12月29日、町はアトランタという名で正式な町になった。1854年には、アトランタとジョージア州西部、アラバマ州との州境近くの町ラグレンジとを結ぶ鉄道が開通した。1860年には、町の人口は9,554人へと増えた。
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