岸内閣とアジア外交
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 14:14 UTC 版)
「日中国交正常化」の記事における「岸内閣とアジア外交」の解説
1957年2月に石橋首相の病気辞任の後岸信介が首相に就任した。彼は冷戦の枠組みの中で日米安保条約の改定でより自主的な外交をめざし、特に東アジアに対しては賠償を含む戦後処理を進めて、アジア諸国との関係改善を計ろうとした。これはアメリカに対して対等の日本の自主性を高める意図があった。 そして戦後初めて現職首相が東南アジアを歴訪して、その帰途に中華民国の台北に立ち寄り、蒋介石総統と会談して中華民国との関係を強化した。岸は中華民国の蒋介石との会談で軍事的な「大陸反攻」に反対しつつ台湾を大陸より豊かにすることが政治宣伝になると提案して中華人民共和国は反発した。親米で親華派だった岸も「日中貿易促進に関する決議」の提案者 でもあり、総理就任後も対中政策重視のため に起用した藤山愛一郎外相とともに国会答弁などで中華人民共和国との国交樹立は尚早としつつ第四次日中民間貿易協定への「支持と協力」 や「敵意を持っている、あるいは非友好的な考えを持っているということは毛頭ない」 として日中貿易を促進したい旨 を再三述べており、岸は中華人民共和国との関係は基本的に「政経分離」であると語ってる。岸は藤山とともに池田正之輔の訪中の際も打ち合わせを行っていた。 そして1958年3月に岸政権の承諾 で第四次日中民間貿易協定が締結された。その時の覚書に通商代表部の設置や外交特権を与え、両国の国旗掲揚も認めるなどの内容が盛り込まれていて、このことで日本政府に対して中華民国とアメリカから反発が出て、予定していた日華通商会談を中止して日本製品の買い付け禁止の処置も出され、岸政権は結局民間サイドでの約束であったので外交特権も国旗掲揚も認めない方針を出し、今度は中華人民共和国側と緊張関係が漂う中で1958年5月2日に「長崎国旗事件」が起きた。これに中華人民共和国の陳毅外相が日本政府の対応を強く批判して、5月10日に全ての日中経済文化交流を中止すると宣言したのである。日中間の貿易が全面中断されて、ここまで積み上げてきた民間交流がここで頓挫していった。この年の夏に周恩来首相が「政治三原則」(中国人民を敵視しない、二つの中国を作らない、両国の関係正常化を妨害しない)を表明し、これに嫌悪感を示した日中間はしばらく膠着状態となった。それまでの日本側の「政経分離の方針」は中華人民共和国側の「政経不可分の原則」と対立し、1959年に訪中した石橋湛山前首相と周恩来首相との会談で「政経不可分の原則」の確認がなされた。 しかし、民間レベルでの接触は続き、企業や友好関係にある団体や個人との交流は続けられた。これらはその後「友好貿易」として経済取引きが継続して、やがて「覚書による貿易」との2つのルートで日中間の経済関係は、中華人民共和国内に文化大革命の嵐が吹き荒れた1960年代も続いた。
※この「岸内閣とアジア外交」の解説は、「日中国交正常化」の解説の一部です。
「岸内閣とアジア外交」を含む「日中国交正常化」の記事については、「日中国交正常化」の概要を参照ください。
- 岸内閣とアジア外交のページへのリンク