岩国電気・中外電気の設立
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「中外電気」の記事における「岩国電気・中外電気の設立」の解説
1916年6月、県北部の大井川にて山口電灯の大井川発電所が運転を開始したことで、山口県でも水力発電の時代が始まった。やがて水力発電は火力発電を電源とする岩国・柳井にも波及していく。 岩国側では、小瀬川での水力発電を目的とする新会社・小瀬川水力電気株式会社が1918年(大正7年)2月に設立された。初代社長は岩国出身の電気技術者で岩国電気軌道の創業者でもある藤岡市助。小瀬川の水利権は藤岡らの岩国側と海塚新八ら広島県側のグループの共同出願で1912年11月に得ていたものの、広島県側発起人の退出や事業計画の縮小などがあり事業化が遅れていた。設立1週間で社長の藤岡が急死したため、藤岡が主宰する東京電気(現・東芝)の技師長新荘吉生が後継社長に就任。そして1919年(大正8年)4月、玖珂郡坂上村(現・岩国市)にて岸根発電所(後の小瀬川第一発電所)の建設に着手した。 建設中の1920年(大正9年)1月、小瀬川水力電気は「岩国電気株式会社」へと社名を変更し、5月には岩国電気軌道を合併した。そして同年9月9日、岸根発電所が運転を開始する。発電所出力は1,650キロワットであり、その発生電力は亘長13.2キロメートルの岩国送電線にて岩国変電所へと送電された。水力発電所の完成に伴い岩国電気軌道から引き継いだ火力の岩国発電所は休止されている。その後、供給区域の拡張認可と山陽電気への電力供給開始(10月開始、当初1,200キロワット)があったことから、翌1921年(大正10年)4月には岸根発電所に予備設備として1,050キロワット発電機が増設された。 一方柳井では、1918年7月31日、国光五郎が経営する周防電灯・大島電気・全州電気の3社合併によって資本金100万円の中外電気株式会社が設立された。合併企業のうち全州電気は朝鮮の全州にあった電力会社だが国光らによる投資の経緯や事業内容は不明。とはいえ内地と朝鮮にまたがるという意味で社名は「中外電気」と命名された。本社は柳井町で、国光が社長に就任した。新体制となったのち、1919年5月、周防電灯が前年5月に水利権を得ていた錦川水系木谷川で2つの発電所建設に着手する。発電所は双方とも玖珂郡広瀬村(現・岩国市)に位置し、出力は250キロワットであった。 1920年5月3日、まず木谷川第二発電所が運転を開始し、亘長39.5キロメートルの送電線を介した柳井変電所への送電が始まった。このとき、木谷川第一発電所および第二発電所への連絡線も完成してはいたが、官庁検査に合格できず、長期の修理・調整の末に運転開始が翌1921年1月にずれ込んだ。
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