山岳ベースへの集結・Aの脱走
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「印旛沼事件」の記事における「山岳ベースへの集結・Aの脱走」の解説
1971年2月 - 17日、逮捕され獄中にあった日本共産党(革命左派)神奈川県委員会最高指導者川島豪の奪還のため、獄外の革命左派メンバーが栃木県の銃砲店から多数の散弾銃や弾丸類を強奪。これにより実行犯メンバーのみならず、獄外指導者の永田洋子や坂口弘も指名手配される身となった。永田らは警察の捜索を逃れるため新潟県を経て、3月上旬から札幌市のアジトでの潜伏生活を余儀なくされた。警察の厳しい捜索に神経をすり減らされる生活の中でいつしか川島の奪還という当初の目的は忘れられ、やがて永田が国内での行動が困難であることを理由に軍事訓練を兼ねての中国亡命を主張しだした。しかし札幌潜伏メンバーを含めた多くのメンバーの反対にあうことになり、それでも自説を曲げなかった永田に大半がやむなくこれに従うという状況であった。また、永田はこの頃これまでの爆弾を中心とした闘争を捨てて「銃を軸とした闘い」を行うことを主張しだした。 1971年4月 - 合同を模索していた共産主義者同盟赤軍派の呼びかけに応じて永田と坂口が他のメンバーを潜伏先の札幌に残して上京。2人は至る所に自身の指名手配写真が貼られている都内での移動に神経をすり減らししていた。そこで坂口が隠れ場所として山岳地にアジト(山岳ベース)を作ることを提起。永田も同意し、永田が学生時代にワンダーフォーゲルで行った奥多摩の雲取山を山岳ベース候補地に決める。 5月末 - 小袖鍾乳洞の廃屋をアジトに決定(小袖ベース)。札幌潜伏メンバーの中から寺岡恒一が上京。札幌潜伏メンバーで取りまとめた内容として、永田を常任委員長から外す改組案を提出し、中国亡命論の非現実性や「銃を中心とした闘い」論を「銃に固執するのはナンセンス」として永田を批判するが永田に反論され寺岡は改組案を取り下げた。山岳をアジトに設定したことにより中国行きの必然性は失われたため、永田は中国亡命論は撤回したものの「銃を中心にした闘い」という方針は改めなかった。札幌から山岳ベースに呼び寄せられた吉野雅邦らも「銃を中心にした闘い」について永田を批判するが、永田は自説を曲げず最終的に吉野らが永田の意見に合わせる形となった。同じ頃に半合法部メンバーを非合法部メンバーに引き入れて入山させることが決定され、A、Bを含むメンバーが入山。小袖ベースでの共同生活が始まる。 6月5日頃 - Aが永田、坂口、寺岡に「小説も書きたいし、大学も行きたい」からと下山の意向を表明。寺岡と坂口が説得するとAは下山の意向を取り下げたが、その翌日の射撃訓練中に脱走する。離脱者の発生を受けて、全員の持ち金を徴収。 数日後、Bも交際相手に会いたいからと下山の希望を申し出たが、他のメンバーに説得されて思い留まる。 6月9日、10日 - 革命左派の拡大党会議。革命左派の合法部である京浜安保共闘に所属し、Aの恋人でもあったC他数名に入山を要請し、Cらの入山が決定。会議では永田が掲げた「銃を軸にした建闘建軍武装闘争」に反対していた寺岡・吉野らが自己批判して永田の意見に賛成の意を表明するなど、「銃を軸にした闘い」という党方針の確認が取られた。この際、Aを革命左派に誘った合法部メンバーが坂口に「Aを放っておいていいんですか?」と質問。坂口は「そうせざるを得ない」と答えた。この時、何らかの対策を立てていればA殺害は免れたかもしれないとして後の裁判において坂口はこのメンバーに激しく詰られたという。 6月15日頃 - B、脱走未遂。坂口らが止めようとするのをBが拒絶しようとしたため、坂口がBを殴り、小屋に入れる。Fが「山を降りるのは自由だ」といい、Cが「居たくないというならやむを得ない」と言ったが、永田は「自由にすれば組織が危うくなる」と反論した。Dは「闘争は自発的に行うものだから逃げ出そうとするものを無理に止めるのはナンセンス」と主張。永田は脱走は裏切り行為に繋がるとしてこのDの発言を批判。Bに見張りが必要だというEの主張により見張りがつけられた数日後、Bは落ち着きを取り戻し、脱走しようとしたことを自己批判した。 7月12日 - 永田とともに下山していた女性メンバーFが永田との待ち合わせ場所に現れず。Fは以後山岳ベースに戻ることはなかった(事実上の脱走)。
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