屋体(庵屋台)と廃絶した曳山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 15:52 UTC 版)
「よいやさ祭り」の記事における「屋体(庵屋台)と廃絶した曳山」の解説
祭礼で曳かれ、井波では屋体という5台の庵屋台は、約140年前の明治期に創建された八日町、上新町、北川・北新町、今町の4台が3層構造の破風屋根の御殿屋体で、上部2層は精巧な御殿の模型になっている。中新町は屋根付き2層構造の踊り屋体で、2層目が舞台になっており、舞台上では女の子たちが踊りを披露する。下層はともに格子がめぐり回され囃子方が中に入り、横笛、三味線、示太鼓、大太鼓、鉦鼓、鼓によって屋体囃子や屋体唄が奏でられる。屋体の大きさは、北川・北新町が一番大きく、長さ2間(約3.63m)、幅7尺(約2.1m)、高さ約4m、八日町、上新町、中新町が、長さ2間(約3.63m)、幅6尺5寸(約1.97m)、今町が長さ9尺(約2.73m)である。なお、以前は各屋体を担いで移動し、中に入る囃子方は屋体の移動に合わせて歩きながら演奏していたが、近年下層の4本の足に車輪を付け床も設けられたため、座って演奏出来るようになっている。また今町の屋体はもともと1層構造の屋体であったが、1926年(大正15年)に3層建てに改築、それに合わせ庇や屋根を増築し現在の形に近いものになっている。 1849年(嘉永2年)には、八日町、六日町、藤橋、三日町、上新町、北新町の6台の屋台、中新町の曳山1基があったという。1878年(明治11年)には、今町の屋体と畑方の曳山(のちに屋体に変更)が加わり、7台の屋体と2基の曳山があった。しかし、1898年(明治31年)春の大火で六日町の屋体を焼失、1925年(大正14年)の大火では中新町の曳山を焼失、1905年(明治38年)に曳山から屋体に変更し、1957年(昭和32年)ごろに運行をやめた畑方も、1968年(昭和43年)の火災で屋体を焼失している。 大正の大火で曳山を失った中新町は、1956年(昭和31年)に花笠のある仮屋体を新造、1979年(昭和54年)に、長さ約4m、幅約2m、高さ約5mの屋根付き2層の踊り屋体を完成させ、2009年(平成21年)まで引き回し、屋体の舞台上で子供たちの踊り(日本舞踊)も披露されていたが、踊り手、世話人などの確保が難しくなり中断した。その後2019年(平成31年)2月に屋体に井波の彫刻を取付けて復活。踊り手や囃子方、世話人なども井波日本遺産推進協議会によって確保し踊りが復活、2019年(令和元年)5月の祭礼以降、引き回され踊りが披露されている。 2021年(令和3年)には、新たにえびす像や大黒像などの井波の彫刻4点を、踊り屋体の屋根などに設置した。また、現在獅子舞を執り行っている下新町は、1868年(明治元年)より屋体制作の計画を立て制作に取り掛ったが、当時の大不況のあおりを受けて中止している。
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