屋代家時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 14:17 UTC 版)
北条藩は寛永15年(1638年)2月、屋代忠正が安房国内に1万石を与えられて立藩された。忠正はもともと駿河大納言(駿府藩主)徳川忠長に御附家老として仕えていた。寛永9年(1632年)、忠長改易の連座によって蟄居処分に処せられたが、赦免されて旧領と同じ1万石が与えられ、大名に復帰した。 初代忠正は寛文2年(1662年)4月に死去し、跡を養嗣子の屋代忠興(忠長の附家老であった朝倉宣正の子)が継いだが、忠興は在任1年足らずして翌年1月に死去し、甥で養嗣子の屋代忠位が3代藩主となった。忠位は百人組頭・大番頭などを歴任したが、小藩にとってその負担は重く、たちまち財政難に陥った。正徳元年(1711年)、忠位は職を辞して出費を節減し、川井藤左衛門を登用して財政再建を図ったが、川井の再建策は年貢の増徴であったために領民の多くが反発し、11月には一部が江戸藩邸、さらには老中の秋元喬知にまで訴える状況に発展した。川井は農民側の代表者3名の処刑という強硬手段で応えたが、農民側は勢いを盛り返して再度幕府に訴え出た。訴えは幕府に取り上げられ、正徳2年(1712年)7月22日、川井父子は死罪、藩主忠位は失政を咎められて改易となり、北条藩は廃藩となった。1万石の藩領27か村の民が参加したことから、万石騒動と呼ばれる。
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