小手指原・分倍河原の戦い
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「新田義貞」の記事における「小手指原・分倍河原の戦い」の解説
新田軍は鎌倉街道を進み、10日に桜田貞国率いる3万の幕府軍と入間川を隔てて対峙した。11日朝に川を渡り小手指原(埼玉県所沢市小手指町付近)に達し、幕府軍と衝突する(小手指原の戦い)。幕府軍は義貞が入間川を渡りきる前に迎撃する算段であったが、義貞の方が動きが迅速であった。 両者は遭遇戦の形で合戦に及び、布陣の余裕はなかった。戦闘は30回を越える激戦となった。兵数は幕府軍の方が勝っていたが、同様に幕府へ不満を募らせていた河越高重ら武蔵の御家人の援護を得て新田軍は次第に有利となっていった。日没までに新田軍は300、幕府軍は500ほどの戦死者を出し、両軍共に疲弊し、義貞は入間川まで幕府軍は久米川まで一旦撤退して軍勢を立て直した。 翌日朝、義貞軍8000が久米川に布陣する3万の幕府軍に奇襲を仕掛けたことで再度戦闘が発生した(久米川の戦い)。桜田貞国は奇襲に対する備えを講じており、奇襲は成功しなかった。幕府軍は鶴翼の陣を敷いて義貞を挟みこむ戦法を採ったが、この戦法を義貞は看破し、戦法にかかったような芝居を見せ、陣を拡散させたため手薄になった本陣を狙い打ちにした。これにより長崎、加治軍は撃破され、桜田貞国は軍勢を纏め、分倍河原まで退却した。 退却した幕府軍は再び分倍河原に布陣し、新田軍と決戦を開始ようとした。先日の敗北により士気が下がっていた幕府軍であったが、そこに北条泰家を大将とする新手の軍勢10余万が加わり、士気が高まった。一方で義貞は、幕府軍に増援が加わったことを知らずにいた。15日未明、義貞は1万の兵力で突撃を敢行し、15万の幕府軍と激突する(分倍河原の戦い)。だが、増援を得て持ち直した幕府軍に迎撃され、堀兼まで敗走した。本陣が崩れかかる程の危機に瀕し、義貞は自ら数百の手勢を率いて幕府軍の横腹を突いて血路を開き辛うじて撤退した。もし、幕府軍が追撃を行っていたら、義貞の運命も極まっていたかもしれないと指摘されている。しかし、幕府軍は過剰な追撃をせず、撤退する新田軍を静観した。『太平記』には、この合戦における両軍の軍勢の構成や、採用した戦法について、詳らかに記述されている。 敗走した義貞は、退却も検討していた。しかし、堀兼に敗走した日の晩、三浦氏一族の大多和義勝が河村・土肥・渋谷、本間ら相模国の氏族を統率した軍勢6000騎で義貞に加勢した。大多和氏は北条氏と親しい氏族であったが、北条氏に見切りをつけて義貞に味方した。また義勝は足利一族の高氏から養子に入った人物であり、義勝の行動の背景には宗家足利氏の意図、命令があったと指摘されている。 義勝の協力を得た義貞は、さらに幕府軍を油断させるため忍びの者を使って大多和義勝が幕府軍に加勢に来るという流言蜚語を飛ばした。翌16日早朝、義勝を先鋒として義貞は2万の軍勢で一気に分倍河原に押し寄せ、虚報を鵜呑みにして緊張が緩んだ幕府軍に奇襲を仕掛け大勝し、北条泰家以下は敗走した。義勝の加勢の背景には、恐らく足利高氏による六波羅探題滅亡の報が到達しており、幕府軍の増援隊の寝返りなどがあったのではないかとも考えられる。いずれにせよ、分倍河原における義貞の勝利はその後の戦局に大きな影響を与えた。
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