北条貞国とは? わかりやすく解説

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北条貞国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/18 10:10 UTC 版)

北条 貞国(ほうじょう さだくに)は、鎌倉時代末期の北条氏の一門。桜田 貞国(さくらだ さだくに)とも呼ばれる。


注釈

  1. ^ 生誕年から算出される元服の年はおおよそ1296年-1301年およびこの前後であり、この期間に得宗家当主であった貞時と烏帽子親子関係を結んだものとみられる[4]。この時期には「得宗(貞時)→御家人」という形で偏諱(「貞」の字)が下賜される図式が成立していたことも研究で指摘されており[5]、貞国もこの対象者であったと考えられる。

出典

  1. ^ a b 近江国番場宿蓮華寺過去帳』(『群書類従』に所収)に記載の没年齢(享年数え年47)より逆算。
  2. ^ a b 『近江国番場宿蓮華寺過去帳』に見られる自害者のリストの中に、「櫻田治部大輔入道浄心 四十七歳」との記載がある。
  3. ^ a b 『太平記』巻第10「高時幷一門以下於東勝寺自害事」に見られる自害者の中に、「桜田治部太輔貞国」が含まれている。
  4. ^ 紺戸淳「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」『中央史学』二、1979年。
  5. ^ 角田朋彦「偏諱の話」『段かづら』三・四合併号、再興中世前期勉強会、2004年、 21頁。
  6. ^ a b 峰岸 2005, p. 57.
  7. ^ 『太平記』巻第10 「新田義貞謀叛事付天狗催越後勢事」に「去程に桜田治部大輔貞国・加治・長崎等十二日の軍に打負て引退由鎌倉へ聞へければ、相模入道・舎弟の四郎左近大夫入道恵性を大将軍として、塩田陸奥入道・安保左衛門入道・城越後守・長崎駿河守時光・左藤左衛門入道・安東左衛門尉高貞・横溝五郎入道・南部孫二郎・新開左衛門入道・三浦若狭五郎氏明を差副て、重て十万余騎を被下、其勢十五日の夜半許に、分陪に着ければ、当陣の敗軍又力を得て勇進まんとす。」とある。


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