北条貞宣とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 北条貞宣の意味・解説 

北条貞宣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/05 02:25 UTC 版)

 
北条貞宣
時代 鎌倉時代末期
生誕 不詳
死没 元応2年(1320年5月
官位 丹波
幕府 鎌倉幕府
氏族 大仏流北条氏
父母 父:北条宣時(※異説あり)、母:未詳
兄弟 宗宣宗泰貞房貞宣
時英、高貞、貞芙、女子
テンプレートを表示

北条 貞宣(ほうじょう さだのぶ)は、鎌倉時代末期の武将。北条氏の一門。父は大仏流北条宣時とされるが、北条政忠(まさただ)[注釈 1]とする系図もある。

元服時に得宗家当主・北条貞時より偏諱(「貞」の1字)を受けて貞宣と名乗る[2][3][注釈 2]。もう一方の「宣」の字は宣時に由来すると考えられる。

正宗寺本「北条系図」、佐野本「北条系図」、前田育徳会所収の「平氏系図」による記述[3]と「公衡公記」における正和4年(1315年)の鎌倉大火の記事で「丹波守貞宣の屋敷が類焼した」と書かれていることから、官途は丹波守であったと推定される。子には時英、高貞、貞芙、女子がいたと伝わる。

政治的な活動としては、正和2年(1313年)、甥の北条維貞と交替で引付頭人に就任、死去する元応2年(1320年5月まで務めたとされる。

「続千戴和歌集」「続後拾遺和歌集」に、それぞれ一首歌が採録されている。

脚注

注釈

[脚注の使い方]
  1. ^ この場合、系譜は北条時房佐介流大仏流の祖)―時盛(佐介流)―時景―時顕―政忠(―貞宣)となる[1]
  2. ^ 貞時の代には「貞」の字が「得宗→御家人」という形で授与される図式が成立していたことが指摘されている[4]。尚、貞時が得宗家当主であった期間(1284年-1311年)の元服ということを考えると、早くとも1270年前後の生まれと推定される(貞房の弟であれば貞房の生まれた文永9年(1272年)以降となる)。

出典

  1. ^ 世界帝王事典 北条氏(時房流)
  2. ^ 紺戸淳「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」『中央史学』2号、1979年、 21頁。
  3. ^ a b 細川重男 (2009年6月11日). “新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その78-大仏貞宣”. 2020年3月4日閲覧。
  4. ^ 角田朋彦「偏諱の話」『段かづら』三・四、再興中世前期勉強会、2004年、 21頁。

参考文献

  • 北条氏研究会 編 『北条氏系譜人名辞典』新人物往来社、2001年、177頁。 



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「北条貞宣」の関連用語

北条貞宣のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



北条貞宣のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの北条貞宣 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS