小川直也との抗争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 13:38 UTC 版)
元柔道家の小川直也と何度も抗争を繰り広げ、1997年(平成9年)4月の初戦(小川のプロレスデビュー戦)は敗れたが、翌月には小川を失神KOで下しリベンジを果たした。1999年(平成11年)1月4日、東京ドーム大会における3度目の戦いでは、橋本は小川にほとんど手も足も出ず事実上の敗北を喫した(結果は無効試合)。試合後に両選手のセコンド同士による乱闘騒ぎも発生した。橋本は試合後の記者会見で、「初めにいいの一発もらっちまったが(橋本は小川のパンチで鼻骨を骨折)(小川は)目がイっていた」と、小川陣営が興奮剤などを使っていたと匂わせるコメントをした。当時全日本プロレスの三沢光晴が全日本プロレス中継内で、「あれじゃいくら何でもプロレスラーが弱くみられる。もっとプロレスラーは強いんだぞってところを見せてもらわないと困る」とコメントし、小川のセコンドについていた佐山聡も「セメントマッチ」であったと語っている。小川はSTOという大外刈りをアレンジした受け身の取りづらい技を編み出しており、橋本はその対策が急務であった。 10月にも小川に敗れ、2000年(平成12年)4月7日東京ドームで行われた5戦目は、「負けたら引退」を公約し試合に臨んだ。橋本もSTO封じを習得し、ダウン中の小川にジャンピングエルボーを仕掛けた際には小川の腕を脱臼させるなど勝利に近づいたものの、その後の関節技で小川の脱臼が偶然にも嵌ってしまい、両腕が自由になった小川のSTO連発を受けて大敗を喫した。その後の公約通り、橋本は新日本に辞表を提出した。橋本はダウンカウントを取られている際には、STOの衝撃により目の焦点が合っておらず「もうダメだ」とも発言しているような動きが見られ、実況の辻よしなりも泣きながら「立ってくれ橋本!」と絶叫した。 3度目の戦いは結果として社会的注目を浴び、1999年10月に行われた4戦目と「負けたら引退」を公約した5戦目の試合結果は、その日の『ニュースステーション』のスポーツコーナーでも伝えられた。
※この「小川直也との抗争」の解説は、「橋本真也」の解説の一部です。
「小川直也との抗争」を含む「橋本真也」の記事については、「橋本真也」の概要を参照ください。
小川直也との抗争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 13:38 UTC 版)
1997年(平成9年)、元柔道世界王者でバルセロナオリンピック銀メダリストの小川がプロ格闘家として猪木に弟子入りしたことで、2人の師弟関係に亀裂が入った。小川のデビュー戦の相手を務めた橋本だったが裸絞めでKO負けを喫すると言う番狂わせが起きた。1か月後に橋本はリベンジを果たしたが、1999年(平成11年)1月4日の3度目の対戦では、プロレスルールを無視した小川の突然の暴走ファイトに橋本もなす術なく試合は無効試合となったが、ノックアウトされ事実上の敗北だった。試合後の会見で橋本は、「絶対許さない」、「何がアントニオ猪木だ!」と黒幕・猪木への怒りを表した。同年10月、4度目の対戦が行われるが、ここでも小川に敗れた。 2000年(平成12年)4月の5度目の対戦でも、小川は橋本を破った。だが、この試合に引退を賭け、男の生き様を見せ付けた橋本に猪木は、「引退は早い」と歩み寄りを見せるようになった。橋本はファンの後押しを受け同年10月に引退を撤回して復帰する。翌2001年(平成13年)にZERO-ONEを旗揚げした橋本に猪木は、「馬鹿になれ!」のメッセージを送り、最大の理解者として橋本の行動を陰で支え、合わせるように小川も橋本と和解し以降2人で「OH砲」としてタッグを組むようになった。 ところが2000年(平成12年)6月、当時PRIDEに参戦していたマーク・ケアーの「ZERO-ONE真撃」への参戦問題に端を発し、橋本と猪木は再び袂を分かった。 小川との一連の抗争引退劇があったためか、この年に橋本の母校の中京高等学校が甲子園出場を決めたが出場校紹介のOB欄に橋本の名前が記載された 2005年(平成17年)、橋本が脳幹出血のため40歳の若さで死去した。猪木は橋本を赤シャツで追悼し、一部に物議となった。 なお、橋本も2005年(平成17年)のプロレスゲームのインタビューで「尊敬するレスラーは?」との質問に「アントニオ猪木」と自ら即答している。
※この「小川直也との抗争」の解説は、「橋本真也」の解説の一部です。
「小川直也との抗争」を含む「橋本真也」の記事については、「橋本真也」の概要を参照ください。
- 小川直也との抗争のページへのリンク