対立組織SRRCの成立と戦闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 15:31 UTC 版)
「ソマリア暫定国民政府」の記事における「対立組織SRRCの成立と戦闘」の解説
2001年2月末、暫定国民政府に反対する有力団体の一部がケニアのナイロビで会議を行った。参加者は、フセイン・アイディード、オスマン・アリ・アト(英語版)、ムサ・スディ・ヤラホウ(英語版)らだった。さらに3月末日、ソマリア南部の5つの有力団体が結集してソマリア和解復興委員会(英語版)(SRRC)が成立した。参加団体はつぎの5つ。中でも、ソマリ国民同盟(英語版)とラハンウェイン抵抗軍は有力だった。ただし、SRRCも、プントランド、ソマリランド、ソマリ救国同盟、オスマン・アリ・アト(英語版)などの協力を得ることには失敗した。アイディードはSRRCの理念として「外国の干渉を最小限に抑えた」と表明している。 名前所属氏族フセイン・アイディード ソマリ国民同盟(英語版) (SNA) ハウィエ ヒロウェ・イマム・オマル(英語版) 統一ソマリ会議の分派 ハウィエ アデン・アブドゥラヒ・ヌール(英語版) ソマリ愛国運動(英語版) (SPM) ダロッド ハサン・シャティガドゥド(英語版) ラハンウェイン抵抗軍 (RRA) ラハンウェイン アブドライ・シェイク・イスマイル(英語版) 南ソマリア国民運動 (SSNM) ダロッド その後、2004年に新政権(暫定連邦政府)ができるまで、ジブチが暫定国民政府を、エチオピアがSRRCを支援する形となった。4月、暫定国民政府は「エチオピアがソマリア統一を妨害している」と非難したが、エチオピアは責任回避だとして逆に非難。 4月末、ラハンウェイン抵抗軍は、ソマリア南部の20の長老が暫定国民政府に参加しようとしているとして逮捕した。5月中旬、SRRCは暫定国民政府がアイディード暗殺を企てていると非難したが、暫定国民政府は否定。5月にはラハンウェイン抵抗軍と暫定国民政府側勢力の間で戦闘が勃発、少なくとも19名が死亡した。6月には、SRRC幹部のエチオピア訪問に合わせるようにして、暫定国民政府は50以上の戦闘車両と兵2,000を投入し、モガディシュ近郊のアイディード派の拠点を攻撃。7月末、ソマリ愛国運動のモハメド・モルガンが暫定国民政府寄りの都市ブアレを占拠するが、8月末には暫定国民政府寄りの軍閥ジュバ渓谷連合がこれを奪回。 2001年9月には、暫定国民政府がアルカーイダとの繋がりを持っているとの疑惑が浮上。暫定国民政府はこれを否定。以後、SRRCは「暫定国民政府はイスラム原理主義よりであり、ソマリアの一部氏族からのみ支持されているが、我々は主要5氏族から構成される民主主義の団体である」と主張している。 2001年10月下旬、暫定議会はアリ首相の不信任案を可決。11月12日、かつてジブチ会議で議長を務めたハッサン・アブシル・ファラー(英語版)が首相に就任。12月末、ケニア大統領のダニエル・アラップ・モイが暫定国民政府とSRRCなどとの和解を試みたが、失敗。 2002年1月、BBCはその時点のソマリアの有力者を分析。それによると、次の通り。 名前所属氏族アブディカシム・サラ・ハッサン 暫定国民政府(TNG)大統領 ハウィエ ハッサン・アブシル・ファラー(英語版) 暫定国民政府(TNG)首相 ダロッド フセイン・アイディード ソマリア和解復興委員会(英語版)(SRRC)代表 ハウィエ ムサ・スディ・ヤラホウ(英語版) ソマリ救国同盟(SSA)、SRRC ハウィエ モハメド・モルガン ソマリ愛国運動(英語版)(SPM)、TNG ダロッド ハサン・シャティガドゥド(英語版) ラハンウェイン抵抗軍 (RRA)、SRRC ラハンウェイン アデン・アブドゥラヒ・ヌール(英語版) ソマリ愛国運動(英語版) (SPM)、SRRC ダロッド ムサ・スディ・ヤラホウ(英語版) ソマリ救国同盟(SSA)、SRRC ハウィエ オスマン・アリ・アト(英語版) ソマリ国民同盟(英語版)(SNA) ハウィエ アブドゥラヒ・ユスフ プントランド大統領 ダロッド ジャマ・アリ・ジャマ プントランドの政治家で、ユスフ大統領の政敵 ダロッド
※この「対立組織SRRCの成立と戦闘」の解説は、「ソマリア暫定国民政府」の解説の一部です。
「対立組織SRRCの成立と戦闘」を含む「ソマリア暫定国民政府」の記事については、「ソマリア暫定国民政府」の概要を参照ください。
- 対立組織SRRCの成立と戦闘のページへのリンク