プントランド大統領
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「アブドゥルラフマン・モハムード・ファロレ」の記事における「プントランド大統領」の解説
伝えられるところによると、ファロレの経歴を買ったさまざまな政治勢力が、彼を支持するとしてプントランド大統領選への出馬を要請したが、ファロレは当初これを断っていたという。しかし最終的には2008-2009プントランド大統領選に出馬するためオーストラリアからソマリアに戻った。2009年1月の選挙で、他の候補者を破ってプントランド大統領に選出された。ファロレはその勝利演説において、ソマリア沖の海賊対策に正面から取り組むこと、さらには利益供与を目的として海賊に協力的な地方自治体に断固とした手段をとることを誓っている。2014年に退任。
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プントランド大統領
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「マハムド・ムセ・ヘルシ」の記事における「プントランド大統領」の解説
アッデは2005年3月にプントランド大統領に選出された。 アッデはソマリア暫定連邦政府(ソマリア正式政府設立を目指した暫定組織)に肩入れし、軍と多くの資金をソマリア南部にある首都モガディシュに送った。そのためプントランドの警備が手薄となり、プントランドでの海賊などの活動を許す原因となった。一方で、アッデはボサソ空港(英語版)などの経済インフラの整備にも力を入れた。 ソマリア沖の海賊は2006年ごろから急増し、2009年から2011年がピークであった。 海賊の急増がアッデの大統領就任の時期と重なっていたこともあり、アッデ自身が海賊行為に関与しているとの疑いも持たれていた。あるいは、直接の関与はしていなくても、海賊行為の収入がプントランド経済に重要な役割を果たしていたため、プントランド政府が積極的な対策を取らなかったとの指摘もある。 一方、プントランドでは暫定憲法が2001年半ばに失効しており、その後に内戦となっていたためうやむやになっていた。そこでアッデ大統領は2005年に国会議員、政府閣僚、弁護士で構成される憲法検討委員会を発足させた。ただしこの委員会は2007年に中断された。 2006年、ソマリア南部で活動を開始したイスラーム過激組織のイスラム法廷会議が急速に力を伸ばし、勢力範囲を北に広げてプントランド国境にまで迫ってきた。アッデ大統領は抗戦を宣言。結局、隣国エチオピアが軍を派遣してイスラム法廷会議は敗退、崩壊した。 2008年10月、アッデ大統領はドバイから、プントランドの沿岸都市のインフラを整備するための資金として1.7億UAEディルハム(当時のレートで約50億円)の支援を取り付けた。 2009年1月、選挙の結果、アブドゥルラフマン・ファロレがプントランド大統領に当選し、アッデは退任した。
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