プントランド建国後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 01:16 UTC 版)
「ジャマ・アリ・ジャマ」の記事における「プントランド建国後」の解説
2001年6月、プントランド大統領のアブドゥラヒ・ユスフは3年の任期が切れたにも関わらず後継選挙をしようとしなかった。ジャマはこの時、大統領候補と目されていた。ユスフはマジェルテーン氏族のオマル・マハムド支族の出身であり、同じくマジェルテーン氏族のオスマン・マハムド(英語版)支族と対立した。 ユスフの対立派はユスフを軍事的にプントランドの首都ガローウェから追放した。そして11月、オスマン・マハムド支族出身のジャマ・アリ・ジャマがプントランド大統領に選ばれた。 しかしユスフはプントランド南端の町で故郷でもあるガルカイヨで体制を立て直し、エチオピアの支援も取り付けて、再び首都ガローウェに進撃した。そして早くも2001年12月に首都ガローウェを奪回した。ジャマは故郷のボサソに退いた。 2002年4月、ジャマはユスフとエチオピアで会談したが、同意に達しなかった。 ユスフは2002年5月7日にはジャマ派の拠点の一つカルド(英語版)を押さえ、5月8日にはボサソもユスフの支配下となった。ジャマはプントランド領域外に逃れた。残ったオスマン・マハムド支族は納税なども含めてユスフに従わなかったが、プントランドへの残留を望み、戦いは収束した。 ただしユスフの反対派の一部は西部のソマリランド支配地域にまで逃れて2003年半ばまでユスフと対立を続けた。
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