富山指導者時代
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2010年、カターレ富山のヘッドコーチに就任。同年9月、成績不振を理由に楚輪博監督が解任され、その後任として富山監督に就任。同年6月開催のFIFAワールドカップにおけるチリ代表の戦術から着想した3-3-3-1 など新たな布陣を導入。更に、安間曰く「負け癖のついていた」選手の意識改革のため、楚輪体制下で出場機会に恵まれなかった者であっても状態次第で起用する旨明言し、チーム内競争を喚起した。また、アウェー戦では当地出身選手を積極的に起用し、奮起を促すという選手心理を巧みに使った起用法を採用。2010年J2第32節北九州戦では九州出身の濵野勇気が逆転ゴールを挙げたほか、第34節熊本戦では熊本県出身の関原凌河がJ初ゴール、第36節岡山戦では岡山県出身の江添建次郎が2得点を挙げるなど成果を挙げた。 2011年、富山と2013年までの3年契約を締結。強化費圧縮もあって J1昇格を狙える選手層を確保できず3年間下位に喘いだが、着実な積み上げによって パスサッカーの浸透が進んだこととチーム力を高めるにはその育成手腕が欠かせないという評価の下、クラブ首脳から厚い信頼を寄せられた。契約満了を迎える2013年末には他クラブからのオファーも届いたが 契約延長の打診に応え、2014年も留任。 2014年は、世代別日本代表の中島翔哉の加入によって戦術・布陣を再考するも、これが奏功せずJ2第16節終了時点で最下位 と低迷。退路を断つべく、第17節湘南戦の前には「今後5試合で3勝出来なければあとは会社の判断」という進退伺をクラブに提出した。その後も湘南戦含め連敗が続き、第19節終了時点でノルマ不達成を確定させたが、クラブ側は「安間が築き上げたものをゼロにするリスクがある」「勝ち点9(3勝)ありきで判断しない」と当初から解任には消極的で、第20節長崎戦の勝利後に指揮継続を発表。しかし、「流れと関係ないミスで失点」する悪癖を解消できず 最下位脱出を果たせないまま第39節でJ3降格が決定。シーズン終了後に監督を退任した。 富山県の強化アドバイザーも兼任しており、下部組織の整備や県内高校生の指導にも尽力していた。
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