宮口古墳群
名称: | 宮口古墳群 |
ふりがな: | みやぐちこふんぐん |
種別: | 史跡 |
種別2: | |
都道府県: | 新潟県 |
市区町村: | 上越市牧区 |
管理団体: | |
指定年月日: | 1976.05.06(昭和51.05.06) |
指定基準: | 史1 |
特別指定年月日: | |
追加指定年月日: | |
解説文: | S50-12-032[[宮口古墳群]みやぐちこふんぐん].txt: 新潟県南部の[[頸城]くびき]平野の東辺にあたる牧村の背後、八幡堂丘陵上とその北東に展開する扇状地上に営まれた後期古墳群である。八幡堂丘陵には8基の横穴式石室墳が稜線上に点在しており、比較的規模の近似した石室からなっている。最大規模の第2号古墳で全長5.4メートルであり、最小のものでも全長4メートルを測る。丘陵下の扇状地に所在する16基の横穴式石室墳は、1.5ヘクタールという狭い範囲に集中しており、規模の大きな第11号古墳の石室は玄室の長さ6.6メートル、幅1.4メートル、羨道の長さ2.07メートル、幅0.8メートルをはかる雄大なものであり、小規模なものは玄室の長さ1.7メートル、幅0.65メートル、羨道長さ0.85メートル、幅0.63メートルを測る小石室である。16基中にはこうした小石室墳が数基確認されており、追葬を配慮した石室と1人の被葬者を意識した石室の2者が見事に対応している。石室は、すべて河原石積の側壁をもち、床面の敷石や羨道閉塞の実際をよく遺存する例がきわめて多い。遺物の検出は追葬を意識した古墳に見られ、6世紀末葉から7世紀前葉に位置づけられるが、小石室墳からは副葬品の発見はなく、位置から見て後出するものかと考えられる。日本海沿岸北部における顕著な古墳時代後期の群集墳としてきわめて重要なものであり、群の在り方、構造を通じてこの地域の動向を窺いうる貴重なものといえる。 |
宮口古墳群
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/24 20:36 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動宮口古墳群 | |
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![]() 宮口古墳群 概観 | |
所在地 | 新潟県上越市牧区宮口 |
形状 | 円墳31基 |
史跡 | 国の史跡「宮口古墳群」 |
有形文化財 | 宮口古墳群昭和五十年度発掘出土品(新潟県指定文化財) |
地図 |
宮口古墳群(みやぐちこふんぐん)は、新潟県上越市牧区宮口にある古墳群(群集墳)。国の史跡に指定され、出土品は新潟県指定有形文化財に指定されている。
概要
本古墳群は、高田平野を流れる飯田川が形成した扇状地上と隣接する尾根上に位置している。1929年(昭和4年)に調査され、存在が知られるようになった。1973年(昭和48年)に3次にわたる発掘調査が行われ、古墳群全体の様子が明らかにされた。そして、この地方の古代の動向を知る上で重要であるとしてA群とB群の範囲が史跡に指定された。この古墳群の築造は、6世紀後半頃に造営が始まり、7世紀前半頃が最盛期であったと推定されている。
規模・形状
古墳群はA、B、Cの3支群に分かれ、宮口集落北方にあるA群は18基、その東側尾根部にあるB群は8基、A群より南に少し離れているC群は5基を有する。これらの古墳はすべて小型の円墳である。
埋葬施設・副葬品
発掘調査された古墳17基はすべて横穴式石室であり、それらの大部分が幅70~120センチメートルと細長く、無袖形であるが、一部に片袖形の石室もある。また、石積みは川原石で小口積みにし、羨道は石積みによって閉塞している。副葬品は直刀、刀子、鏃、馬具、玉類[1]が出土したほか、11号墳からは円頭大刀[2]が出土。
文化財
国の史跡
- 宮口古墳群 - 1976年(昭和51年)5月6日指定[3]。
新潟県指定文化財
- 有形文化財
- 宮口古墳群昭和五十年度発掘出土品(考古資料) - 牧歴史民俗資料館保管。1978年(昭和53年)3月31日指定[4]。
ギャラリー
脚注
参考文献
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- 伊予部倫夫「宮口古墳群」『図説 日本の史跡 第2巻 原始2』文化庁文化財保護部史跡研究会監修、同朋舎出版、1991年。ISBN 978-4-8104-0925-3。
関連項目
外部リンク
座標: 北緯37度5分35.3秒 東経138度21分25.3秒 / 北緯37.093139度 東経138.357028度
固有名詞の分類
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