宗教的寛容の形成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 15:18 UTC 版)
ハンガリー王国、特にその東部は、カトリック教会圏と東方正教会圏の境界地帯であった。14世紀ごろにカトリックの王家が正教徒を差別することはあったものの、両教会は大きな衝突なく共生していた。南部や北東部の正教の領主は多くの正教の修道院を建てた。トランシルヴァニアでは、14世紀後半から正教の聖職者が居住する修道院の存在が知られている。 モハーチの戦い以来の混乱のために、ハンガリーではルター派など新教徒の弾圧が困難だった。むしろモハーチの戦いでのオスマン帝国の勝利が「神の怒り」と受け取られ、宗教改革が支持され浸透する状況ができていた。ヤーノシュ1世は1529年にオスマン帝国と同盟したことで教皇に破門され、以降ルター派の弾圧に消極的になっていた。彼は1538年にシェースブルク(現ルーマニア・シギショアラ)でカトリック聖職者とルター派説教師の公開討論会を開催している。 1541年から1545年にかけて東ハンガリー王国の議会は、1437年のナジ・アンタルのトランシルヴァニア農民反乱(英語版)の際に三国民(ハンガリー人貴族、トランシルヴァニア・ザクセン人、セーケイ人)が合意した三国民同盟の基本法を再確認した。これは、各「国民」が内部問題を個々の議会で独自に解決できるとするものだった。ザクセン人議会は宗教問題を外からの干渉を受けない内部問題であると考え、1544年から1545年にかけて領域内の都市や村に宗教改革を積極的に広め始めた。1540年代から、ルター派は貴族層にも浸透し始めた。1545年、ヴァーラド(現ルーマニア・オラデア)出身の29人のハンガリー人説教師が、エルデード(現ルーマニア・アルドゥド)でアウクスブルク信仰告白に類似した信条宣言を行った。 東ハンガリー王国を保護するオスマン帝国はイスラーム教国であるが、人頭税(ジズヤ)を支払えばキリスト教徒でもユダヤ教徒でも生活することを許されていた。1548年、ブディン(ブダ)を統括するパシャが「すべての住民が危険にさらされることなく神の言葉を聞けるべきである」として、トルナのカトリック教会に対しルター派の迫害を禁じた。歴史家のスーザン・J・リッチーは、この命令がトルダの勅令に影響を与えた可能性があるとしている。ただし、勅令の作成者たちがパシャの命令を知っていたという明確な証拠は見つかっていない。 オスマン帝国の宗教面での寛容政策により、帝国内には多様な宗教共同体が併存し、これがまたオスマン帝国による多文化統治を支える大きな要因となっていた。 1550年ごろ、スイスからカルヴァン派の思想が流入してきた。ルター派のハンガリー人小貴族からはカルヴァン派への改宗者が続出し、1553年にはコロジュヴァール(現クルジュ=ナポカ)がカルヴァン派へ改宗した。 1551年、フェルディナント1世が東ハンガリー王国を一時的に制圧し、イザベラとヤーノシュ2世は王国を追われた。この年、デブレツェン市のルター派の市議会議員たちが、聖餐におけるキリストの出現を否定したとして、市の牧師マールトン・カールマーンチェヒ(英語版)を糾弾した。この牧師は市から追い出されたが、裕福な貴族ペトロヴィチ・ペーテルに匿われた。 その後フェルディナント1世に東ハンガリーを防衛する力が無いことが判明してきたため、東ハンガリー議会は1556年にイザベラとヤーノシュ2世を呼び戻した。 この時フェルディナント1世と戦うなど大きな功を立てたペトロヴィチ・ペーテルは、ルター派とカルヴァン派の聖職者の間での討論会を開催した。1557年、議会は東ハンガリーにおける宗教寛容成文法の端緒となる布告を出した。これは独立したルター派の存在を認知し、カトリックとルター派が暴力的な行動をとらないよう促すものだった。 我らとその高貴なる子らが、領土の諸身分の熱心な請願への返答として、礼拝の慣習において新しきも古きも含んだ己の望むあらゆる信仰を保つことを許すと定めたがゆえに、我らは信仰の問題を彼らの分別に委ねたのである、それが(諸身分を)満足させるであろうから。この点において、ただし、何人に対しても一切の不正が行われることは無いであろう。 —Decree of the Diet of 1557 同年、ヴァーラドのハンガリー人カルヴァン派聖職者たちが、厳格な聖餐方式を確認した。ルター派は彼らを「サクラメンタリアン」と呼んだ。しかしこのサクラメンタリアンは、1558年の議会で非合法化された。
※この「宗教的寛容の形成」の解説は、「トルダの勅令」の解説の一部です。
「宗教的寛容の形成」を含む「トルダの勅令」の記事については、「トルダの勅令」の概要を参照ください。
- 宗教的寛容の形成のページへのリンク