学問領域としての確立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/27 21:48 UTC 版)
19世紀後期から20世紀初期の古典的社会学の理論家にはルドヴィク・グンプロヴィッチ(1838年–1909年)、フェルディナント・テンニース(1855年–1936年)、エミール・デュルケーム(1858年–1917年)、ゲオルク・ジンメル(1858年–1918年)、マックス・ヴェーバー(1864年–1920年)、カール・マンハイム(1893年–1947年)がいる。彼らの多くは自身を厳密な意味での「社会学者」とは考えておらず、法哲学、経済学、心理学、哲学にしっかりと取り組んでいた。 形式的・学術的な社会学は1895年にデュルケームがボルドー大学にヨーロッパで初めての社会学部を創設し、『社会学的方法の規準』を発表したことに始まる。1896年には彼は『社会学年報』を創刊した。デュルケームの影響力の高い論考『自殺論』(1897年)はカトリック、プロテスタント、ユダヤ教という宗教別自殺率に関する事例研究であり、社会学的分析を心理学や哲学から区別した。本書は構造機能主義という概念に対しても大きく貢献した。 アメリカ合衆国において「社会学」と銘打たれた講義は1875年にウィリアム・グラハム・サムナーによって初めて行われ、ヨーロッパでデュルケームの研究が進んでいるのに対してコントやスペンサーの思想に追随した。これに次いで古いアメリカ合衆国での社会学の講義は1890年にカンザス大学で開かれ、フランク・ウィルソン・ブラックマーが教鞭をとった。1891年にはカンザス大学で歴史社会学部が創立され、最初の完全に独立した社会学部は、1895年に『アメリカ社会学誌』を創刊したアルビオン・ウッドベリー・スモールによって1892年にシカゴ大学に創設された。アメリカの社会学はヨーロッパの社会学とは明らかに異なる方向へ興起した。シカゴ大学でジョージ・ハーバート・ミードおよびチャールズ・ホートン・クーリーがシンボリック相互作用論や社会心理学の発展に影響を及ぼし、一方レスター・フランク・ウォードは1883年に『動的社会学』を発表して科学的方法の根本的な重要性を強調した。 イギリスで最初の社会学部は1904年にロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに創設された。1919年には、新たに反実証主義社会学を創始したマックス・ヴェーバーによってドイツのミュンヘン大学に社会学部が創設された。1920年にはポーランドでフロリアン・ヴィトルド・ズナニェツキ(1882年–1958年)によって社会学部が創始された。フランクフルト大学の「社会研究所」(後に批判理論で有名なフランクフルト学派の牙城となる)は1923年に創設された。批判理論は第二次世界大戦後にそれ自身の生の何かを引き受け、カルチュラル・スタディーズのバーミンガム学派や文学理論に影響した。 社会学の国際的な共同研究は1893年にルネ・ウォルムス(1869年–1926年)が小規模な国際社会学協会を創設したことに始まるが、1949年以降はより大きな国際社会学会がそれを凌いだ。1905年には世界最大の社会学研究者の団体であるアメリカ社会学会が創始され、レスター・フォードがこの学会の初代会長に選出された。
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