娘の結婚、フランス訪問
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 16:25 UTC 版)
「メアリ・オブ・ギーズ」の記事における「娘の結婚、フランス訪問」の解説
マリーは1548年7月、フランスとの間で王太子フランソワ(後のフランソワ2世)とメアリーとの婚約を決め、エドワード6世との婚約を破棄した。7月29日、メアリーは迎えに来たガレー船に乗船し、メアリー・フレミング、メアリー・シートン、メアリー・ビートン、メアリー・リヴィングストンという4人の同名の侍女達と共にフランスに向けて旅立った。 1557年にマリーは、ボスウェル伯をスコットランド国境のハーミテージの指揮官に任命した。ボスウェル伯は、当時スコットランド国境から絶えず侵入を繰り返し、人々を恐れさせていたイングランドの軍隊や盗賊団の掃討に、目ざましい働きを見せていた。マリーはボスウェルを高く評価しており、さらに地域一帯の指揮権も与えている。 1557年12月3日、アースキン、アーガイル、モートン、グレンケアンらのプロテスタント貴族は、プロテスタントの布教に努めるというもっともらしい口実で「組合貴族」を結集し、エディンバラに集結した。彼らは自分達を「イエス・キリストの会衆」と自称すると、スコットランドの政治・宗教上の改革と、スコットランド全土におけるプロテスタント教会の設立を要求した。彼らの真の目的は、国内のカトリック勢力を打倒し、カトリック教会の財産を手中にし、マリーに入れ知恵をする邪魔なフランス人を駆逐する事であった。 1558年4月24日、ノートルダム大聖堂で、メアリーはフランソワと結婚式をあげた。マリーはスコットランドを離れる事ができなかったので、母アントワネットを娘の婚姻契約を結ぶための代理として派遣する。1559年5月10日、カリスマ的な存在であったノックスは、パースのセント・ジョン教会で偶像崇拝の根絶と聖遺物の破壊を訴えた。これを契機に国内で反乱が勃発した。わずか2日間の間に、荒れ狂う民衆の手で3ヶ所の修道院が破壊され、聖遺物が奪われる。 さらに、この暴動は瞬く間にスコットランド全土の教会に広がった。5月22日、組合貴族達は武装蜂起を決定し、イングランドへ援助を求めた。マリーもフランスの弟達に援助の要請を求めるべく、フランスに行った。また、彼女は息子フランソワとメアリーにも会いたいと考えていた。4月23日のマリーからの手紙で、メアリーは母がフランスを訪れる事を知ると、自分はとても幸せであり、母の期待に添えるようにがんばって勉強し、立派な人間になりたいという手紙を書いている。マリーは9月25日にルーアンの宮廷に到着した。宮廷では歓迎式典が開かれた。長い間離れ離れになっていた親子は楽しく語り合った。 しかし親子の対面以外では、マリーのフランス訪問に収穫はなかった。アンリ2世に財政援助をしつこく懇願したため、かえって逆効果になってしまったからだった。フランスの駐屯軍を養うために、彼女は大変な財政難に陥っていて、使用人の給料さえ満足に支払えなくなっていた。さらにこの月、メアリーがフランスにやってきた時「世界一すばらしい妹だ」と言ってメアリーを歓迎した息子、フランソワが小児病にかかり、急死してしまった。マリーはこの悲しみを母宛ての手紙に書いている。
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