娘の田村とも及び孫の大浦甫の回想
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「伊藤平治郎」の記事における「娘の田村とも及び孫の大浦甫の回想」の解説
三重郡菰野町の田村家に嫁いだ娘の「とも」が、1989年(平成元年)富洲原地区の広報富洲原(とみすはら)に父伊藤平治郎の思い出平治郎橋のむかし・いまとして平治郎橋建設の逸話を寄稿した。東京都上野の国立博物館で、当時(明治時代)に伊藤平治郎が発行した金本位制による交換券が展示されている。 伊藤平治郎は1901年(明治34年)に21歳で菰野町の進士ますと結婚して5男3女(男子2人と女子1人は早く死んだ)に恵まれて浄土真宗高田派の熱心な仏教徒であったと回想している。日中戦争中に精密機械の軍事製造企業の興亜精工株式会社を創設して昭和16年に消火器がんで死去した。 平治郎の娘の田村ともの寄稿文はこのように紹介されていた。「明治時代は江戸時代の鎖国から開国して、西洋文化が流入した。文明開化の時代で鉄道は大日本帝国臣民である明治時代の日本国民の待望であった。関西鉄道が開通して、祖父の6代目伊藤平次郎は旅行好きで京都市の寺院へ国鉄富田駅から鉄道へ行けるのを喜んでいた。父伊藤平治郎の祖先の江戸時代の封建制度の士農工商の身分では武士階級であったが、江戸で商いを始めて成功して郷里の桑名藩領であった四日市市富田地区の茂福村へ善教寺を建立して、富田六郷の富田一色村へ移住した。父伊藤平治郎は伊藤家の6代目の祖父が、富田駅が明治時代末期の当時は富田の東富田町へ迂回して廻らなければ行けず、祖父は寄進してでも橋をかけ、富田駅へまっすぐ直通の道をつけたいと言っていた。3代目伊藤家当主の伊藤才助が千石船を2隻保有して伊勢国と江戸を交易して伊藤家は繁栄して相応の家財を残して、加えて川越町の南福崎地区と北福崎地区の福崎村の田んぼを売却して資金を作った。祖父は1904年(明治37年)に亡くなり父伊藤平治郎はその志を継いで1908年(明治41年)に最初の平治郎橋を完成させた。父伊藤平治郎は自分の名前が付いた橋をと思った訳でなく富田一色村の人達から当然のように伊藤平治郎の名前から平治郎橋と橋名が決定された。」
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