大阪駅清水太右衛門殉職事故とは? わかりやすく解説

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大阪駅清水太右衛門殉職事故

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 22:45 UTC 版)

日本の鉄道事故 (1949年以前)」の記事における「大阪駅清水太右衛門殉職事故」の解説

清水太右衛門描いた紙芝居鉄路ノースゲートビルディング立体駐車場をつなぐ通路移設された清水太右衛門殉職1907年明治40年5月31日 18時ごろ(鉄道人身障害事故大阪駅駅員清水太右衛門岐阜県羽島郡小熊村出身)が同駅西第一踏切踏切番として勤務中、遮断機をくぐり線路入った幼女発見そのとき西成線の上列車同時に迫ってきた。太右衛門踏切内に飛び込み間一髪幼女救ったが、列車接触して重傷負い幼女気遣いながらも22時間後に入院先で死亡した死亡前に事故目撃者1人から10円もの寄付があり、大阪駅長が発起人となって義捐金集め太右衛門贈ろうとしていた。 この出来事に心をうたれた人々太右衛門功績後世伝えるため、1907年10月現場付近現在の北区梅田三丁目)に「清水太右衛門殉職碑」が建立された。1945年大阪大空襲破壊されたため、1956年国鉄総裁十河信二揮毫再建された。2007年大阪駅改装工事のため阪神高速池田線梅田出入口付近に移設、これ以来JR社員によって数十年ぶりに命日慰霊式が行われるようになった2011年1月ノースゲートビルディング立体駐車場をつなぐ通路移設された。そこからも後に撤去されたが、正式な移設先は2020年現在決まっていない現場となった踏切大阪駅高架化に伴い昭和初期廃止された。 1942年昭和17年)に太右衛門行為描いた紙芝居大阪鉄道局によって制作された。慰霊碑移設新聞記事見た作者息子から2011年6月紙芝居JR西日本寄贈された。『大阪駅物語』によって紙芝居作られた事自体知られていたが、所在不明だった参考文献朝日新聞大阪本社社会部 編 『大阪駅物語弘済出版社1980年48 - 50頁。 日本国有鉄道総裁文書課 編 『鉄道碑めぐり』日本国有鉄道1962年137 - 139頁。 関連項目山崎栄塩狩峠

※この「大阪駅清水太右衛門殉職事故」の解説は、「日本の鉄道事故 (1949年以前)」の解説の一部です。
「大阪駅清水太右衛門殉職事故」を含む「日本の鉄道事故 (1949年以前)」の記事については、「日本の鉄道事故 (1949年以前)」の概要を参照ください。

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