大阪女学院の教育
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/19 18:31 UTC 版)
大阪女学院のミッションステートメントはその冒頭に、「本学はキリスト教に基づく教育共同体である」と記されている。「キリスト教に基づく」とは、聖書が示す人間観に基づく、と言い直すことができる。J・Bヘール宣教師は、「日本人が今まで教えられてきた哲学には、独立した単位としての“人格”という概念はない」と、本国に書き送っている。当時、単位と言えば家であり、藩であり、国であり、人間はそれらに属するものとされていた。一人ひとりが神によって造られたかけがえのない尊い存在であって、自ら選び、自ら行動し、自ら責任を引き受ける、まことの自由をもった人格としての存在であるとする観念は、当時の日本人には理解しがたいものだったのだ。創設者の課題は時代への挑戦であり、意識革命であった。それはある意味では今も続いている。 大阪女学院の教育は、人格的存在としての人間形成を目標としている。もとより、あれができ、これができ、役割が果たせる人間、いわゆる機能的存在としての人材の育成は、一般的には大学の重要な使命であろうが、それとともに人格的存在としての人間形成に深く意を用いているところに、大阪女学院の際立つ特徴がある。開校以来、大阪女学院では宣教師が校長を務めていたが、最初の日本人校長・森田金之助にまつわるエピソードは、そのあたりの事情をよく物語っている。あるとき、生徒の一人が問題を起こした。その公表のしかたによっては、生徒の名誉か、学校の名誉かが著しく損なわれる事件であった。どう扱うかと思案する関係者に、森田は毅然として言い渡したという。「生徒の名誉か、学校の名誉か、そのどちらかを選ばなければならないときは、躊躇することなく生徒の名誉を尊重しなさい」。神によって一人の人間に与えられた生命、身体、自由、名誉を徹底して尊重する信念の表れにほかならない。 教育共同体とは、共同して教育に当たるという意味と同時に、学生・生徒・教職員、関わる者すべてが互いに出会いを経験し、共に学び、共に育ち、共に生きていくという意味を色濃く含んでいる。関わる者すべてが、共に学び合う協力態勢をさし、かけがえのない私、同じようにかけがえのない存在としての他者、互いに相手を手段としない、このような理解は愛の関わりの中で実現される、という聖書の教えを基本としている。人間覚醒は自己への目覚めであり、同時に、他者、人間をめぐる環境、歴史的社会環境への目覚めでもある。そして、深いところでの人間の解き難い問題性に気づくことを教育の中心においている。
※この「大阪女学院の教育」の解説は、「大阪女学院大学」の解説の一部です。
「大阪女学院の教育」を含む「大阪女学院大学」の記事については、「大阪女学院大学」の概要を参照ください。
- 大阪女学院の教育のページへのリンク