大火砕流の発生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 09:07 UTC 版)
6月3日15時30分以降、小・中規模の火砕流が頻発し、15時57分には最初の大規模な火砕流が発生した。この火砕流と(火砕流から発生する)火砕サージは報道陣が取材に当たっていた「定点」には至らなかったものの、朝から降り続いた降雨に加えて火砕流から発生した火山灰が周囲を覆ったため、「定点」付近の視界は著しく悪化した。 続く16時8分、1回目を上回る大規模な火砕流が発生し、溶岩ドームから東方3.2kmの地点まで到達する。火砕サージは更に溶岩ドームから4.0km先にある北上木場町を襲い、筒野バス停付近(5.0km先)でようやく止まった。火砕流は赤松谷川方面にも流れたが、南からの突風で火砕サージは「定点」方面に流れたため、この方面の住民と消防隊員、さらに撮影スタッフもカメラを据え置いて即座に風上に逃げたこともあり難を逃れた。 一方、火砕流の襲撃を受けた「定点」の報道関係者は不測の事態に備えて即座に逃げられるよう、チャーターしたタクシーや社用車を南に向けてエンジンをかけたまま道路に止めていたものの視界が悪く、逃げ道となるべき風上からも、前述の赤松谷川方面から流れてきた火砕サージの襲撃を受けたため、ほとんど退避できなかった。「定点」から数百m離れた農業研修所の消防団員は火砕流の轟音を土石流が発生したものと判断し、水無川を確認するため研修所から出たところを火砕サージに襲われ、多くの団員はそのまま自力で避難勧告地域外へ脱出したものの、重度の熱傷と気道損傷を負った。 結果、戦後初の大規模な火山災害として、43名の死者・行方不明者と9名の負傷者を出す惨事となった。死者の内訳は以下のとおりである。 報道関係者16名(アルバイト学生を含む。内訳は『毎日新聞』3人、テレビ長崎3人、日本テレビ2人、NHK2人、九州朝日放送2人、テレビ朝日1人、『日本経済新聞』1人、『読売新聞』1人、フリー1人) 火山学者ら3名(クラフト夫妻と案内役であったアメリカ地質調査所のハリー・グリッケン) 避難誘導にあたっていた警察官2名、警戒にあたっていた消防団員12名 タクシー運転手4名、市議会選挙ポスター掲示板を撤去作業中だった作業員2名、農作業中の住民4名 死亡した『読売新聞』のカメラマンは、愛機のニコンF4を抱えるようにして亡くなっており、カメラからは熱により変色していたものの火砕流の写真が7コマ記録されていた。なお、これら多数の死傷者が出た「定点」付近は全て避難勧告内に収まっていた。 2005年(平成17年)6月、火砕流で死亡した日本テレビのカメラマンが使用していた業務用ビデオカメラが発見された。カメラは火砕流による高熱で溶解し高度に破損していたが、内部のテープを取り出し、慎重にはがして修復することに成功した。ビデオには、最初の火砕流の様子を伝える記者たちの様子や、二番目の大火砕流の接近に気付かないまま、「定点」が襲来される直前まで取材を続ける記者や、避難を広報するパトカーの姿や音声が記録されていた。この映像は、同年10月16日に『NNNドキュメント'05 解かれた封印 雲仙大火砕流378秒の遺言』として放送され、現在では溶けたカメラと共に雲仙岳災害記念館(島原市)に展示されている。 この日、山麓には(火山噴出物が混じって)黒く濁った雨が降った。
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