国際石油市場への進出とメジャーへの挑戦
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「エンリコ・マッテイ」の記事における「国際石油市場への進出とメジャーへの挑戦」の解説
1953年、イタリア国営石油会社ENI(Ente Nazionale Idrocarburi)の設立が法制化された。これによりAgipはENIに吸収され、マッテイはENIの会長の座についた。ここにきて彼の関心は国際石油市場に向けられる。彼はたびたび小さな猫のたとえ話を使った。「大きな犬どもが鉢の中でえさを食べているところに一匹の小猫がやってきた。犬どもは小猫を襲い、投げ捨てる。我々(イタリア)はこの小猫のようなものだ。鉢の中には皆のために石油がある。だがあるやつらは我々をそれに近づけさせたがらない。」この寓話によって彼は当時のイタリアの貧困層から絶大な人気を集めた。こうしてイタリア人の心を掴んだ彼は政界からの援助も受けることになる。メジャーによる石油寡占を打破するため、ENIは中東の最貧国や共産圏の国々との協定を結んだ。1950年代後半にはすでにエクソンやロイヤル・ダッチ・シェルなどの巨大企業との競争を開始し、1957年、彼は極秘裏に対仏独立闘争をしていたアルジェリア独立派に対して融資を開始した。彼はチュニジアやモロッコと協定を結び、これらの国の石油採掘に関してフィフティ・フィフティ・パートナーシップを提唱した。このフィフティ・フィフティ・パートナーシップはそれまでメジャーにより結ばれてきた協定より産油国側にとってはるかに魅力的であった。また、イランとエジプトに対しては、より産油国側に有利な協定をオファーした。まずENIと産油国側が試掘・採掘のためのジョイント会社を設立するが、採掘に関わるリスクは全てENIが受け持つ。したがって仮に石油が出なかったとしても産油国側は1セントたりとも払う必要はない。ジョイント会社の社長は産油国側がなり、役員数はENIと産油国側で半々とする。さらに石油による利益は産油国側75パーセントに対しENI側が25パーセント。これが中東における採掘契約の新基準となり、これによりそれまでのメジャー主導型の採掘協定は過去のものとなった。マッテイは中東の石油試掘・採掘におけるメジャー寡占状態に穴を開けることに成功した。 次にマッテイは精製・販売においてもメジャー寡占を打破することを目指した。このとき自国イタリア市場はメジャーの代表格であるエクソンとBPに占められていた。1959年、マッテイはソ連のニキータ・フルシチョフと交渉し、市場価格より低い値段での石油輸入契約を結んだ。さらに中国とも輸入契約を結ぶことに成功し、ENIはイタリア市場だけでなくヨーロッパ市場においてもメジャーと互角以上の競争を演じた。マッテイ率いるENIの主導する価格競争に引きずり込まれたメジャーは1960年8月、産油国側になんの相談もなく石油買い取り価格を引き下げてしまう。これに猛反発を示した産油国側は1ヶ月後バグダードに集まり、OPECを結成することになる。 1960年、彼はアメリカの石油独占の時代は終わったと宣言した。こうしてその実力を広く認知されたマッテイのENIはサハラにおけるメジャーによる採掘区分割に招かれた。しかしマッテイはアルジェリアの独立が協定署名のための条件であるとした。このため彼はフランスの反アルジェリア極右組織OASの標的となり、OASはあからさまな脅迫を始めた。1962年、彼の飛行機が破壊工作に遭ったが、偶然に彼のパイロットにより発見された。マッテイはCIAはもちろんのことイタリアの情報機関Sifarも信頼しようとせず、彼はENIスタッフやかつてのパルチザン仲間からなる個人護衛機関を組織した。
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