国際法違反事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/11 09:48 UTC 版)
有泉が艦長であった期間に、以下の事件が起きたとされる。 1944年3月26日、蘭貨物船「ティサラック」を撃沈した際、生存者の一部を甲板に引き上げて尋問した後刃物で刺殺したり、レンチで撲殺。海上にいる生存者にも機銃掃射を行った。これにより乗船者103名中98名が死亡し、5名が救命艇に泳ぎ着き、後に通りかかった米貨物船に救助された。 1944年7月2日、米リバティ船「ジーン・ニコレット」を撃沈した際、生存者の一部を甲板に引き上げ、殴ったり、ナイフで刺したり、銃で撃ったり、パイプで殴打されたりして殺害し、救命ボートや、海上に浮かんでいる生存者達を機銃掃射した。そのうち、伊8は英哨戒機をレーダーで探知したため、甲板にいた生き残りの捕虜を海上に追いやった後急速潜航した。かろうじて救命ボートにしがみついていた二十数名はなんとか助かり、その後、イギリス領インドの軍艦に救助された。 この二つの殺傷事件には背景があった。1943年9月、有泉の上司に当たる第八潜水戦隊司令官・市岡寿少将(42期)は、東京の軍令部首脳から「ドイツのリッベントロップ外相から日本に対して、連合国の商船を撃沈した場合、乗組員も全滅させてもらいたいという要請があり、海軍も同意した。貴官もそのつもりで敵船乗員の処分は徹底的にやってもらいたい」と言われていた。ドイツは、大西洋でUボートによりいくら米・英の船を撃沈しても、新たに大量に建造されるので効果が現れない。そこで船員を殺すことを考えついたわけである。ドイツ側から要請があったことは、戦後の軍事裁判で米国の弁護士が明らかにした。このような背景により伊26や伊37でも同様の事例が発生した。 同時期における似たような事例としてはサ号作戦において発生したビハール号事件があった。 有泉は、司令として搭乗していた伊401で終戦を迎え、米軍の接収後に自決した。この事件については戦中から連合国の抗議が行われていたが、第八潜水戦隊の副官であった近藤道生は自決していた有泉に責任を負わせている面があること、有泉自身は敵船乗員の処分に反対していたことを証言している。 1942年3月から1943年6月まで第六艦隊司令長官を務めた小松輝久中将(37期、北白川宮の第四子)は、戦後この事件の責任を問われ、横浜の軍事法廷は重労働15年を言い渡した。また、市岡少将には1948年2月、重労働20年の判決が言い渡された。直接関係のない前任者の石崎昇少将(42期)にまで重労働10年の刑が課された。 戦後、戦犯裁判の対策に当たっていた復員庁第二復員局の豊田隈雄大佐が第六艦隊参謀長だった三戸寿中将に確認したところ、確かに軍令部から派遣された参謀からそのような口頭命令があったこと、現場の艦長が口頭命令でそのようなことはできないと反発したので仕方なく命令書を作成したことを内密に打ち明けたという。
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