国王専制を批判
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チャールズ1世の代の1626年に起きたバッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズの弾劾ではその失政を追及して、反国王派から注目を受けるようになる。ジョン・エリオットらと共に1628年の権利の請願作成と提出に中心的な役割を果たしたが、翌1629年にチャールズ1世が議会を解散して無議会状態となると、プロヴィデンス島会社の収入役に就任した。これは表面上、新大陸における植民地建設のための会社であったが、裏では反国王派を政治的弾圧から保護する目的を有していた。株主に庶民院議員ジョン・ハムデン、貴族院議員ウォリック伯ロバート・リッチ、ブルック男爵(英語版)ロバート・グレヴィル、セイ=シール子爵(英語版)ウィリアム・ファインズなどが名を連ね、スペイン軍がカリブ海の植民地に上陸して会社が倒産した後も連携を保った。また、政府に投獄されていたエリオットが1632年に獄死、コークも1634年に亡くなると、彼らに代わりハムデンと共に庶民院指導者として政府を批判していった。 1640年4月の短期議会によって議会が再開された時、主教戦争の軍費捻出のため議会に課税同意を求めるチャールズ1世に対して、国王の個人支配(英語版)とも呼ばれた無議会政治への非難と人民の政治的権利の保障要求と国王の政治運営に対する追及を行った。続いて、11月からの長期議会においてピムは王妃ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランスやカンタベリー大主教ウィリアム・ロード、政権指導者のストラフォード伯爵トマス・ウェントワースらの糾弾を行った(後にストラフォード伯は処刑)。また、無議会政治でチャールズ1世が濫用した大権とその執行機関の廃止に尽力、1641年2月から8月にかけてトン税・ポンド税・船舶税禁止、星室庁・高等宗務官裁判所廃止、3年に1回議会の召集などを定め王政に制限をかけていった。それらは清教徒革命が終わり王政復古が始まっても変更されず保持され、イギリスが近代国家へ進む土台となっていった。 これに対してチャールズ1世は、先のスコットランドにおける主教戦争にピムら反国王派が関与したと非難して孤立化を謀り、さらにアイルランドにおける反乱(アイルランド反乱(英語版)・アイルランド同盟戦争(英語版))の発生でイングランド国内に挙国一致的な空気が生まれたことが、ピムを苦境に追い込んだ。ピムに率いられたグループは11月に「議会の大諫奏」(大抗議文)を辛うじて議会で通して、これに対抗した。大抗議文は議会を通過したものの、わずか11票差というきわどいものであった。 1642年1月3日、チャールズ1世は貴族院に対してピムやハムデン、アーサー・ヘジルリッジ、デンジル・ホリス、ウィリアム・ストロードら急進的な5人の庶民院議員の逮捕を要請したが、失敗に終わった。これを知った5人は、翌4日に議会に登院してチャールズ1世を挑発、遂にチャールズ1世自らが兵を率いて庶民院に乗り込む事態となった。だが、5人は直前にロンドン市内に逃げ込み、5人の引渡しを求めるチャールズ1世に対して、ロンドン市民は抵抗の姿勢を見せたために、チャールズ1世は身の危険を感じてロンドンを脱出、11日に5人は議会に復帰した。これにより議会派と王党派は戦争へ向かい8月に第一次イングランド内戦が始まり、大抗議文を巡り議会派内部も分裂、ピムやハムデンら急進派は独立派に属し、穏健派はピムの友人だったエドワード・ハイド(後のクラレンドン伯爵)など王党派に転向する議員もいたが、大勢は長老派を結集し後の内部抗争を招くきっかけにもなった。
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