国定公園から国立公園へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/13 00:46 UTC 版)
「デスヴァレー国立公園」の記事における「国定公園から国立公園へ」の解説
1929年に発生した世界恐慌の時代になると、市民保全部隊による全米各地の国立公園の整備事業や建設事業が国家的に行われた。1933年2月11日、当時のアメリカ合衆国大統領であるハーバート・フーヴァーが、デスバレーおよびその周辺地域を国定公園に指定するという発表をし、カリフォルニア州南東部の約7,800平方キロメートルとネバダ州西端のごく一部が保護地域となった。これに伴いデスバレー国定公園でも整備事業や建設事業が行われることとなり、12社の企業が市民保全部隊とともにこの事業に加わった。デスバレー国定公園では1940年代の初めまでに約800キロメートルの道路が整備され、水道や電話線が引かれ、合計76棟の建物が建てられた。パナミント山脈には優れた景色を望むための道路が作られ、また、先住民族であるショショーニ族のためにレンガ造りの村落、洗濯場、交易所なども作られた。さらに多数の休憩所や行楽施設の他、1本の滑走路、5箇所のキャンプ施設も建設された。 その一方で、1933年の国定公園への指定により、この地域での探鉱や採鉱事業は一時的に休止することになった。しかしながら、事前の申し合わせによって議会が働きかけたため、同年の6月には採鉱事業が再開されることとなった。またこの頃から採鉱技術は大きく発達し、純度の低い鉱石を加工することが可能となり、重機の登場によって巨大な岩を移動させることが可能となった。これによりデスバレーでの採鉱事業は変貌を遂げ、大きな収益を獲得することができるようになった。しかしながら世界的に活動を行っていた採鉱業者が、国定公園からよく見える位置にある鉱山で露天採鉱を行い、景観に傷跡を残した。この行為に対して一般市民から激しい非難が沸き起こり、アメリカ合衆国にあるすべての国立公園および国定公園がより厳しく保護されるきっかけとなった。 1976年、アメリカ合衆国議会は、デスバレー国定公園内での新たな採鉱事業を禁止する法案を可決した。この法律によってデスバレー国定公園内での露天採鉱は禁止され、国立公園局は1976年以前に与えられた何万もの採掘権の妥当性について調査を行うことになった。1980年、連邦政府はより厳格な環境基準を課した上で、限定的に採鉱を行うことを許可した。国立公園局の資源管理部門はデスバレー国定公園周辺の鉱山を監視し、許可を受けていない125の業者と許可を受けた19の業者についての調査を継続した。その一方で、連邦政府の指導により、デスバレー国定公園内の資源が保護されることは保証された。 1984年、デスバレー国定公園は生物圏保護区に指定された。1994年10月8日、デスバレー国定公園の保護地域は約5,300平方キロメートル拡大され、さらに砂漠保護法の可決により国定公園から国立公園へと昇格した。これによりデスバレー国立公園は、飛び地を含まない連続した国立公園の中では、アメリカ合衆国で最も広い国立公園となった。 デスバレー国立公園の広域地下水流動系の範囲内に位置している多くの都市は、アメリカ合衆国内でも例を見ないほど急速な発展を遂げている。デスバレー国立公園から半径160キロメートルの範囲内に位置しているネバダ州ラスベガスやネバダ州パーランプはその顕著な例であり、1985年から1995年にかけてラスベガス近郊の人口は550,700人から1,138,800人にまで増加した。
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