国務大臣就任と死去
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「チャールズ・ウィンダム (第2代エグレモント伯爵)」の記事における「国務大臣就任と死去」の解説
1761年春にアウクスブルクで行われる予定だった七年戦争の講和会議では大ピットとニューカッスル公爵の推薦を受けてイギリス代表の1人になった。この講和会議は最終的には開催されなかったが、エグレモントは同年7月8日に枢密顧問官に任命され、同年10月に大ピットが南部担当国務大臣から辞任すると、マンスフィールドの推薦を受けてその後任になった。以降ビュート伯爵内閣とグレンヴィル内閣でも留任した。 就任してすぐフランス・スペイン間の第三次家族協約への対応に追われ、スペインとの交渉にかかりきりだった。エグレモントはまず国王と議論して、首相の第3代ビュート伯爵ジョン・ステュアートに知らせないまま在スペインイギリス大使(英語版)の第2代ブリストル伯爵ジョージ・ハーヴィーに交渉を命じ、イギリスがスペインへの敵意を有さないことを約束しつつ、家族協約にイギリスの利益を損害する内容が含まれない證明を引き出そうとした。しかし、エグレモントは対スペイン交渉において譲歩の意思を見せず、結局交渉は決裂、イギリスは1762年1月4日にスペインに宣戦布告した(英西戦争 (1762年-1763年)(英語版))。 直後の1762年3月に卒中を起こして危篤状態に陥ったと報じられるが、すぐに回復し、以降1762年中を通してフランスとの講和交渉にあたった。イギリスがスペイン領ハバナを占領していたため、エグレモントはジョージ・グレンヴィルや初代マンスフィールド男爵ウィリアム・マレー(英語版)とともに、ビュート伯爵の講和政策(講和を何よりも優先させる政策)に反対したが、講和条約の交渉役である第4代ベッドフォード公爵ジョン・ラッセルはエグレモントが在イギリスフランス大使ニヴェルネー公爵との会談で譲歩したため、「フランスはパリで失ったものをロンドンで取り返した」と訴え、ビュート伯爵と国王ジョージ3世もベッドフォード公爵を支持した。そのため、同年夏にエグレモントをアイルランド総督に転出させ、閣内分裂を防ごうとする動きがあったが失敗に終わり、2人の関係は悪化した。やがてエグレモントはビュート伯爵やほかの閣僚を説得、11月2日の予備講和条約が締結されたときにはハバナをスペイン領フロリダと交換させることに成功した。この一連の政争について、リチャード・リグビー(英語版)はエグレモントがベッドフォードを憎んだため攪乱に動いたと指摘、フォックスはエグレモントよりもグレンヴィルとマンスフィールドを責めるべきとの見解を表明した。 1763年4月にビュート伯爵が首相を辞任すると、グレンヴィルが後任になり、エグレモントと北部担当国務大臣の第2代ハリファックス伯爵ジョージ・モンタギュー=ダンクと三頭政治を組んで国王の意向を政策に反映しつつ、ビュート伯爵の「秘密の影響力」に対抗した。このことについて、エグレモントは同年5月にビュートになんらかの影響力が残っていることが発覚した場合、自身は即刻辞任すると表明するほどの強硬な態度を示した。 その後、ジョン・ウィルクスの誹謗文書事件への対応に追われる中、1763年8月21日にピカデリーのエグレモント・ハウス(英語版)で卒中を起こして死去、息子ジョージ・オブライエン(英語版)が爵位を継承した。
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