善悪を超えたヒロインへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 15:48 UTC 版)
その実力から、ヒールでありながら女子プロレス界の最高位を占めた。このとき、最終的にはベビーフェイスがヒールを倒すという従来の対立構造が崩れ、さらには獄門党から配下のアジャ・コング、バイソン木村の両名からなる「ジャングル・ジャック」の独立を許し、ヒール対ヒールというかつてなかった対立構図が団体の中心となった。また、女子プロレスではそれまでなかった金網デスマッチやチェーン・デスマッチの敢行、大柄・巨体のレスラーとしてありえないはずのムーンサルト・プレスやトペ・スイシーダといった宙を舞う華麗な空中殺法など、あらゆる意味で女子プロレスの歴史を塗り替える顕著な働きを見せた。特に、このころから始まった団体対抗戦(他団体トップ選手との試合)は盛り上がり、ここでは(善玉悪役すべてを飛び越えて)会社を代表して臨んだ。 1990年11月14日に横浜文化体育館で行われたアジャとの金網デスマッチにて、金網ケージの頂上から飛び降りて放ったギロチン・ドロップで、女子プロレスの枠を超えて一気にブレイクする。 1992年11月26日、川崎市体育館においてアジャに敗れてWWWA世界シングル王座を失った後、1993年からアメリカのWWF(現WWE)へ長期遠征し、ルナ・バションをマネージャーに女子戦線のトップヒールとしてアランドラ・ブレイズと抗争した。WWE世界女子王座を獲得した唯一の日本人レスラーでもある。WWEのRAW10周年のイベントの際にはショーン・マイケルズがスピーチで彼女について少し触れている。ジム・ロスはUnforgiven 2007の実況の中で、ベス・フェニックスについて「アメリカのブル中野」と評した。 1994年に日本に復帰し、神取忍とチェーンデスマッチを行い勝利を収めた(女子のチェーンデスマッチはデビル雅美VSモンスター・リッパーが初である)。神取は中野がかつて試合で放った「高さ4mの金網の上からのダイビング・ギロチンドロップ」を見て以来「こんなすごいことをやれる女子プロレスラーが日本にいたのか」と驚嘆し、ブル中野とのチェーンデスマッチを切望するようになったという。後日実現した対戦では神取が「お互い好き放題暴れられるよう、鎖を長めにしてほしい」と要望した。中野はこの申し出を快諾、神取の希望をほぼ全て了承して試合に臨んだ。中野は、その長いチェーンを脚部に巻き付けたダイビング・ギロチンドロップを放ち快勝。この技で神取は顔面を負傷したが、「ブルさんだからこそ、あれ(ギロチンドロップ)を躊躇無く私の顔面に落とした。本当に素晴らしい試合でお客も喜んでいたし、私にとってもベストバウトと考えている」と述懐している。 1996年に再びアメリカへ遠征。WCWにてメデューサらと抗争を繰り広げた。この頃から「お前らが結婚して、子供作っても、ブル中野のプロレスを見せてやる」と長々とマイクパフォーマンスをする等、1ヒールレスラーから、女子プロレス界のご意見番としてヒール、ベビーフェイスを越えた存在となっていく。 ヒールレスラーとして大きな成功をおさめたが、中野は本来温厚でかなりおっとりとした性格の持ち主でもあり、ダンプやユウ、コンドルなどの極悪同盟メンバーと同様に後輩の世話や面倒見がとても良く、今も多くの後輩からたいへん慕われており、堀田祐美子、アジャ・コング、KAORU、影かほる、三田英津子、山田敏代、井上京子、井上貴子などの多くの後輩をプライベートでも可愛がる一面もあった。またプロレスラーになる前の北斗晶はブル中野のファンで、私設のファンクラブを作ったことがある。プロでは先輩後輩、のちにライバル関係となった二人でもあるが、プライベートでは親友関係にあったという。後輩で北斗と同期の神崎文枝とも親友で非常に仲が良かったという。 1997年、以前負っていた左膝靭帯2本を断裂する大怪我が起因となりプロレスラーを引退。引退後の2001年には、アメリカのプロレス誌「Wrestling Observer Newsletter」が選出するWrestling Observer Newsletter殿堂入りを果たしている。
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