哲学部への転部
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「マルティン・ハイデッガー」の記事における「哲学部への転部」の解説
1911年1月、デンマークの作家ヨハネス・ヨルゲンセン(Johannes Jørgensen)の『旅行記 光と暗い自然と精神』書評を執筆した。1911年2月、勉学のしすぎによる喘息性の神経性心臓障害により静養する。エーリナー奨学金は司祭就職になるという契約であったので、ハイデッガーが神学の勉強を中断をしたため打ち切られる。静養中にヨーゼフ・ガイガーの著作を読む。1911年5月にはオットー・ツィンマーマン『神の必要』の書評を執筆した。ハイデッガーは友人ラズロウスキーに数学、哲学、神学の3つの道について相談している。フライブルク大学神学者で『カトリックドイツのための文学展望』誌編集者ヨーゼフ・ザウアーには「論理学についての最近の諸研究」発表をハイデッガーは申し出て1912年3月17日付ザウアー宛書簡ではこの論考は「数学的論理学の多岐にわたる探求に着手するための支点」であり、「空間時間の問題は数学的物理学に定位することで暫定的解決」に近づくと書かれている。1911年/1912年冬学期にはハイデッガーは数学・自然科学部に在籍し、数学、物理学、化学、アルトゥール・シュナイダーのキリスト教哲学、西南ドイツ学派(新カント派)のリッケルトの哲学講義を受講し、1912年夏学期からは400マルクの奨学金が給付された。のちにハイデッガーの学位論文主査をするアルトゥール・シュナイダー(Artur Schneider,1876 - 1945)はアルベルトゥス・マグヌスにおけるアリストテレスやアウグスティヌス的要素を研究した哲学者であり、またカトリック保守派で1912年の著書『一元論的世界観の哲学的基礎』では唯物論や社会民主主義を批判し、のちには国家社会主義教師連盟(Nationalsozialistischer Lehrerbund)や国家社会主義公共福祉(NSV)に参加した。リッケルトは副査、教授資格論文では主査となった。 また、ハイデッガーはリッケルトの高弟エミール・ラスク(Emil Lask,1875 - 1915年戦死)にも影響を受け、ラスクが1911年に刊行した著作『哲学の論理学と範疇学』について「存在者と妥当するものによって、思考可能なもののすべてを包括する範時論をうちたてようとしたラスクの試みは、カントの超越論的論理学の継承発展」と評価し、フッサールの範疇論や範疇的直観が取り入れられていると評価している。またラスクが1912年に刊行した『判断論』も労作であるとハイデッガーは評価している。 1912年、ハイデッガーは「現代哲学における実在問題」をゲーレス協会哲学年報に発表する。5月には「宗教心理学と下部意識」を執筆。同5月、ベネディクト会修道士J・グレートの1989年の著作『アリストテレス=トマス哲学綱要』の書評を書いている。夏学期にトラークルの詩を読む。「論理学に関する最近の諸研究」を発表。
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