品質低下とその影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/16 02:27 UTC 版)
「誉 (エンジン)」の記事における「品質低下とその影響」の解説
当時の日本の工業界は国家総動員法により、大量生産を意識した体制へ舵を切り、その一環で規格化やマニュアルの導入、生産ラインの機械化も実施されてはいたものの、他の主要参戦国のような規格化や品質管理が不徹底であり、結果的に熟練工に依存する生産体制となってしまった。その影響もあり、開戦時は戦前に生産されていた分のおかげで大量生産しなくても需要を満たすことができ、開戦後も中期ごろまで熟練工が多数いたことや需要と供給のバランスが保っていたため、その時期に生産された完成品は歩留まり率が高い傾向であったが、戦争後期になると生産能力や物資不足の問題が表面化。戦局の影響で需要が急拡大したため、供給不足に陥った。また、熟練工が徴兵され代わりに学徒勤労動員を筆頭とした素人に生産させる状態になったことで完成品の歩留まり率は低下。そのうえ、生産数を減らして品質を確保するより生産量を確保することを優先するなど、発揮できる生産能力以上の生産を実施したため粗製濫造を招き、歩留まり率の低下に拍車をかける原因となった。対策として代用材料の使用や部品製作の簡略化が図られたものの、焼け石に水程度の効果であり、またアメリカ軍の空襲により生産施設が破壊されたことによる歩留まり率の悪化も起き、どのような理由にしても戦争後期は品質の悪化の一途をだどる状況であった。 こうして本来の性能を発揮できない不完全な誉が数多く出荷され、結果的に搭載機の性能不足や稼働率低下を引き起こすこととなった。稼働率低下の一例をあげると、1945年(昭和20年)7月の松山基地の偵察部隊では保有していた彩雲16機のうち作戦可能機はわずか2機に過ぎず、1機は故障、残りの13機のうち8機までがエンジンの調整・整備に追われるという有様であった。 当時、零戦の後継機として開発中であった烈風の主任設計者である堀越二郎技師は、同機のエンジンとして誉を搭載することに反対していたが、それはエンジン品質の低下による性能の額面割れを危惧したからだと本人が証言している。実際に誉を搭載した烈風の試作機は大幅な性能不足で、三菱内でエンジン出力を測定したところ1,300 hp / 6,000 m程度(地上計測による換算値、なお海軍の保証値は1,700 hp / 6,000 m)しかなく、さらに同時期に製造された誉搭載機の速度・上昇率を調べたところ公称値よりも低下しており、いずれも烈風の試験結果に対応していたと報告されている(なおこれに対し、中川技師は烈風の試験が行われたのは前述した吸気系の鋳物の改善前でエンジン出力が最も低下していた時期ではなかったかと述懐している)。
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