和田金と人々
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 19:07 UTC 版)
来客のメインは接待利用であるが、これまでに数多くの著名人が来店している。特に東京支店があった頃には、皇族を始め政財界の人々に松阪牛を納め、東京で松阪牛ブランドを築くのに貢献した。1929年(昭和4年)には田中義一らが和田金の牛肉の「試食会」を開いたという記録が残っている。 開高健は和田金を訪れ、小説『新しい天体』の中に和田金を登場させている。『新しい天体』は、「相対的景気調査官」なる役職に就いた主人公が、北海道から鹿児島県まで日本全国を巡り、予算消化のためにただひたすら食べまくるというストーリーである。またマイケル・ブースは「自分の手で牛をマッサージする」という本来の目的(野望)を伏せたまま松阪市などと取材交渉を重ね、紹介された和田金の牧場を見学し、店舗に訪れた体験を『英国一家、ますます日本を食べる』に綴っている。芸能人では寺門ジモンが行きつけの店としており、TBSテレビの『人生最高レストラン』で「すき焼きの頂点」として紹介している。寺門は幼少期から松阪市に墓参りで訪れており、寺門が肉好きとなるきっかけを作った店が和田金であったという。双子の長寿姉妹として知られたきんさんぎんさんは入店前に「牛肉は好きではない」、「魚の方がいい」と漏らしていたが、寿き焼とあみ焼を堪能した後は「また食べたい」と上機嫌であった、というエピソードがある。 日本国外からはマレーシアの首相のマハティール・ビン・モハマドが外交ではなく観光目的で伊勢志摩に訪れた際に家族で来店し、牧場も見学した。駐日アメリカ合衆国大使のハワード・H・ベーカー・ジュニアは伊勢神宮を訪問する前に夫妻で来店している。 本田宗一郎のエピソードの1つに和田金にまつわるものがある。三重県で開かれたある会議に参加した本田は、管理職の1人が和田金での昼食を提案したところ、「50人も一緒に食事できる部屋はあるのか」と問い、ほかの参加者が弁当を食べることを知ると、自分も弁当にすると言った。社長だからと特別扱いされることを嫌い、人はみな平等と考えた本田の人柄を表すエピソードである。 桑名市の柿安本店の社長であった赤塚保は和田金に憧れを抱き続けていた。1960年代の売上は和田金の納税額よりも少なかったが、和田金を目標として事業を拡大して成功を収めたという。
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