和田越の戦いと自害
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明治10年(1877年)8月15日の和田越の決戦では、佐藤三二とともに西郷軍奇兵隊5個中隊を率いて熊田に残っていたが、政府軍の攻撃で隊長の山崎定平が負傷したために後退してきた熊本隊の救援に向かった際に処平は負傷する。西郷軍は和田越の決戦で敗北して長井村へ後退する。処平は北川村川坂の神田氏宅で療養する。 和田越の戦いの翌日8月16日に西郷隆盛により解軍の令が出され、西郷軍のほとんどが政府軍に投降した。同8月17日夜に西郷ら投降しなかった西郷軍残存兵は可愛岳の包囲網を突破した。 療養中に加えて野村忍介ら同様に可愛岳突囲決定の場にいなかった処平も、可愛岳突囲の知らせを受けて西郷らの後を追うが合流できずに、8月18日早朝に可愛岳近くの高畑山中腹で切腹した。「烏合の衆を以て、天下の大兵に抗するもの半歳。聊か以て武名を辱かしめざるを似たり。然れども事此に至る。亦命なり。宜しく死を以て此志を致すに若かざりなり」と言って自害したともされる。享年32。
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