和田義盛伝説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 13:09 UTC 版)
江古田には鎌倉幕府重臣和田義盛にまつわる伝説がある。一つは和田山(現・中野区江古田地域内の哲学堂公園)の地名説話である。治承4年(1180年)源頼朝が挙兵して武蔵国松橋(板橋)に布陣したとき、家臣たちは各々近辺に陣屋を布いた。和田義盛は現在の哲学堂公園の丘に滞陣した。ここは和田義盛が陣屋を布いた山なので和田山と呼ばれるようになった。また、和田山の北側に植木戸という地名があり、これは和田陣屋の木戸があった所だという。もう一つの伝説は江古田の旧家・小川家の家祖伝説である。鎌倉将軍源頼朝が亡くなると、和田義盛は執権北条氏と対立し、鎌倉で合戦して敗死した(和田合戦)。伝承によると、和田義盛は鎌倉で死なずに、郎党とともに江古田に逃れ、この地で自害した。和田義盛の子・小太郎磯盛は帰農して百姓・磯右衛門となった。その子孫は代々磯右衛門を名乗り、小川姓を称した。小川家は和田義盛を崇敬し、第六天として祭った。第六天社は氷川神社に合祀されるまで江古田本村の一角(現・江古田1-6-19)にあった。もとは通称小川家敷跡が第六天社であったという説もある。小川屋敷は寺山(現・江古田の森公園一帯)の西に存在していた、高荘の屋敷であったという。平成の江古田遺跡発掘調査では伝承地付近で居館の一部とみられる遺構が検出された。小川屋敷伝説との関連が推測されている。
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