可愛岳突囲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 19:11 UTC 版)
8月15日、和田越の決戦に敗れた西郷軍は長井村に包囲され、俵野の児玉熊四郎宅に本営を置いた。16日、西郷は解軍の令を出した。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}我軍の窮迫、此に至る。今日の策は唯一死を奮つて決戦するにあるのみ。此際諸隊にして、降らんとするものは降り、死せんとするものは死し、士の卒となり、卒の士となる。唯其の欲する所に任ぜよ。 これより降伏する者が相次ぎ、精鋭のみ1,000名程が残った。一度は決戦と決したが、再起を期すものもあり、選択に迫られた首脳は17日午後4時、征討軍の長井包囲網を脱するため、遂に可愛岳突破を決意した。突破の隊編成として、前軍に河野主一郎・辺見、中軍に桐野・村田新八、後軍に中島・貴島を置き、池上・別府晋介は約60名を率いて西郷を護衛した(「鎮西戦闘鄙言」では村田・池上が中軍の指揮をとり、西郷と桐野が総指揮をとったとしている)。この時の突囲軍は精鋭300〜500(『新編西南戦史』は約600名)であった。17日夜10時に児玉熊四郎方を発して可愛岳に登り始め、翌18日早朝、可愛岳の頂上に到着した。ここから北側地区にいた征討軍を見たところ、警備が手薄であったため、突囲軍は辺見を先鋒に一斉に下山攻撃を開始した。不意を衝かれた征討軍の第1・第2旅団は総崩れとなり、退却を余儀なくされた。このため突囲軍は、その地にあった征討軍の食糧、弾薬3万発、砲一門を奪うことに成功した。 一方で深夜に敢行されたことで、深壑に落ちた石井貞興や戦傷もあって西郷と合流できずに自害した小倉処平のように西郷に合流できなかった者も存在した。
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