同人と雌伏とは? わかりやすく解説

同人と雌伏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 08:08 UTC 版)

中原中也」の記事における「同人と雌伏」の解説

1929年4月同人雑誌白痴群創刊同人は中也の他に河上徹太郎村井康男内海一郎阿部六郎古谷綱武安原喜弘大岡昇平富永次郎参加。後に『山羊の歌』に収録される詩や翻訳毎号発表。しかし中原大岡富永次郎争ったり、原稿集まり悪くなったりしたことで、翌年4月6号出して廃刊となった以後雌伏」の時期となり、詩作止まる1930年9月中央大学予科編入学12月小林別れた泰子築地小劇場演出家山川幸世の子出産。中也はその子に「茂」と名づける種痘勧めたり、あせもや小さな傷を気遣う手紙書いたり、時には一日預かるなど可愛がった1931年中大予科に籍を置いたまま、東京外国語学校専修科仏語部(現・東京外国語大学)に入学授業午後5時から2時間だけの夜学だった。中也はフランス留学するため、外務書記生の試験受けよう考えていた。9月26日4歳下の弟恰三(こうぞう)が肺結核死去父の死に目に会えなかった中也は恰三を見舞ったあと、母のフクに「もし恰ちゃんが死んだら、こんどは死に顔をぼくに見せてから焼場つれてってください」と伝えて上京フク言われたとおり恰三が亡くなると中也を呼び戻し死に顔見せてから焼場連れていった。中也は泣かなかったが「恰三のことがかわいそうでならぬといったふう」だったという。 1932年6月に初の詩集山羊の歌』の出版計画。1口4円で150口、600集まれば200印刷する予定だったが、申し込み知人10名ほどで、7月もう一度募集出したが、申し込みはなかった。中也と親し大岡らは払い込んでもどうせ飲んでしまうに決まっているとの判断だった。フクからも300送ってもらったが、製本まで資金足りず刷り上った本文紙型安原喜弘預かっている。このころノイローゼになり、強迫観念幻聴があったが、年末から年明け帰省回復1933年3月東京外語専修科中程度成績卒業外務書記生の道はあきらめ近所学生フランス語教えて小遣い得ていた。『山羊の歌』を出版するべく、出版社持ち込むうまくいかなかった。12月、『ランボオ詩集学校時代の歌〉』の翻訳三笠書房より刊行。この翻訳がはじめての商業出版である。本が売れたことで中也は小林秀雄とともにランボー代表的訳者として名を残すことになった無印税だったが、中也はこの訳詩集中原本家はもちろん遠い係累にまで送った同じく12月遠縁にあたる6歳の上孝子結婚中原思郎著『兄中原中也祖先たち』59頁によると、「中也は、上野孝子との結婚において、最も素直なであった。母のなすがままになっていた。孝子が気にいったからかしれないが、母から金をせしめたとき以外は、すべてについて必ず一言あった中也が、結婚については全く従順な息子であった。中也の七不思議というものがあるとすれば素直な結婚はその一つの不思議である。見合い吉敷親戚中村家行われた上野孝子は下殿中原家親類筋にあたる。中原系族間の結婚である。」という。中原家地元温泉旅館西村屋」で身内だけの結婚式盛大な披露宴行ったあと上京

※この「同人と雌伏」の解説は、「中原中也」の解説の一部です。
「同人と雌伏」を含む「中原中也」の記事については、「中原中也」の概要を参照ください。

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