同人と雌伏
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1929年4月、同人雑誌『白痴群』創刊。同人は中也の他に河上徹太郎、村井康男、内海誓一郎、阿部六郎、古谷綱武、安原喜弘、大岡昇平、富永次郎が参加。後に『山羊の歌』に収録される詩や翻訳を毎号発表。しかし中原が大岡、富永次郎と争ったり、原稿の集まりが悪くなったりしたことで、翌年4月に6号を出して廃刊となった。以後「雌伏」の時期となり、詩作が止まる。 1930年、9月に中央大学予科に編入学。12月、小林と別れた泰子が築地小劇場の演出家山川幸世の子を出産。中也はその子に「茂樹」と名づける。種痘を勧めたり、あせもや小さな傷を気遣う手紙を書いたり、時には一日預かるなど可愛がった。 1931年、中大予科に籍を置いたまま、東京外国語学校専修科仏語部(現・東京外国語大学)に入学。授業は午後5時から2時間だけの夜学だった。中也はフランスに留学するため、外務書記生の試験を受けようと考えていた。9月26日、4歳下の弟恰三(こうぞう)が肺結核で死去。父の死に目に会えなかった中也は恰三を見舞ったあと、母のフクに「もし恰ちゃんが死んだら、こんどは死に顔をぼくに見せてから焼場へつれてってください」と伝えて上京。フクは言われたとおり恰三が亡くなると中也を呼び戻し、死に顔を見せてから焼場へ連れていった。中也は泣かなかったが「恰三のことがかわいそうでならぬといったふう」だったという。 1932年、6月に初の詩集『山羊の歌』の出版を計画。1口4円で150口、600円集まれば200部印刷する予定だったが、申し込みは知人10名ほどで、7月にもう一度募集を出したが、申し込みはなかった。中也と親しい大岡らは払い込んでもどうせ飲んでしまうに決まっているとの判断だった。フクからも300円送ってもらったが、製本まで資金が足りず、刷り上った本文と紙型を安原喜弘が預かっている。このころノイローゼになり、強迫観念や幻聴があったが、年末から年明けの帰省で回復。 1933年、3月に東京外語専修科を中程度の成績で卒業。外務書記生の道はあきらめ、近所の学生にフランス語を教えて小遣いを得ていた。『山羊の歌』を出版するべく、出版社に持ち込むがうまくいかなかった。12月、『ランボオ詩集〈学校時代の歌〉』の翻訳を三笠書房より刊行。この翻訳がはじめての商業出版である。本が売れたことで中也は小林秀雄とともにランボーの代表的訳者として名を残すことになった。無印税だったが、中也はこの訳詩集を中原本家はもちろん遠い係累にまで送った。 同じく12月、遠縁にあたる6歳下の上野孝子と結婚。中原思郎著『兄中原中也と祖先たち』59頁によると、「中也は、上野孝子との結婚において、最も素直な子であった。母のなすがままになっていた。孝子が気にいったからかもしれないが、母から金をせしめたとき以外は、すべてについて必ず一言あった中也が、結婚については全く従順な息子であった。中也の七不思議というものがあるとすれば、素直な結婚はその一つの不思議である。見合いは吉敷の親戚中村家で行われた。上野孝子は下殿中原家の親類筋にあたる。中原系族間の結婚である。」という。中原家地元の温泉旅館「西村屋」で身内だけの結婚式と盛大な披露宴を行ったあと上京。
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