同一期への移行:有限性の導出根拠をめぐって
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 10:01 UTC 版)
「フリードリヒ・シェリング」の記事における「同一期への移行:有限性の導出根拠をめぐって」の解説
1800年、シェリングは、友人ヘーゲルが私講師としてイェーナ大学で教えるよう推挙した。1800年はまた、ヘーゲルの著書『フィヒテ哲学とシェリング哲学の差異』が刊行された年でもあった。シェリングは『ブルーノ』のなかで、ヘーゲルの就職論文『天体運動論』を全面的に借用している。また二人は1802年から共同で雑誌『哲学批判雑誌』を刊行した。この雑誌は主に自然哲学を扱い、1803年、シェリングがイェーナから転居したことを切っ掛けに廃刊になった。シェリングとヘーゲルの協力関係は、このころをもって終わったと考えられている。 カロリーネと結婚した1804年は、シェリングにとって私生活だけではなく、哲学上の転機の年ともなった。カール・アウグスト・フォン・エッシェンマイヤーに「差別/有限性はどのようにして無差別から導出されるのか」と批判されたシェリングは、その問いに答える必要を感じ、『哲学と宗教』(1804年)を著した。そこでは彼の古い関心、「悪の起源の問題」が再び取り上げられており、有限性の生起は、本来同一であるものの頽落 (Abfall) によるとされた(なお、この著作自体の構想は1802年にはすでにあり、本来は『ブルーノ』の第2部として構想されていた。しかしシェリングとしてはなるべく早くこの問題を論じることを必要と感じ、著作を対話編としてではなく散文の論文で発表した)。しかしなぜ頽落が起こるのか、そのことはここでは十全には論じられていない(本著作のこの欠点はヘルマン・ツェルトナーらによって指摘されている)。この問題は、1809年の『自由論』で再び大きく取り上げられることになる。 バイエルン王立アカデミーの総裁として、シェリングは、1807年、講演『造形芸術の自然への関係』を行った。この講演で、シェリングは同一哲学に立脚し、当時盛んだったヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマンの新古典主義的美術観に一定の価値を認めながら、しかし自然であれ古代芸術であり、外的な「死んだ形態」ではなく、そこに形態として現れてくる精神そのもの、「生きた自然」を把握し、表現するべきであると説いた。これは同地では非常に好評を博したが、しかしこの講演の内容を入手したヘーゲルはA・W・シュレーゲル宛て書簡で皮肉を交えた痛烈な批判を行った。少年時代からの二人の友情はいまや終わりに近づいていた。 同じ1807年に刊行されたヘーゲルの『精神現象学』でシェリングの同一哲学が批判された。シェリングにおいて絶対者は同一性にあるとして直観によって把握されるが、ヘーゲルはその無媒介性による把握の妥当性を批判し、むしろ概念による哲学を主張した。研究者によってはここで批判されているのは、シェリングではなくその追随者であるシェリング主義者であるとする(ヘーゲルも同様の釈明をシェリングあて書簡で行っている)が、「ピストルからずどんと飛び出す直観」「すべての牛を黒く塗りつぶす闇夜」などの表現がシェリングとその直観概念に結びつけられており、シェリングはこれを非常に心外に感じた。これをもってテュービンゲン以来の両者の友情は終焉し、以後ヘーゲルはシェリングにとってもっとも重要な論敵のひとりとなった。
※この「同一期への移行:有限性の導出根拠をめぐって」の解説は、「フリードリヒ・シェリング」の解説の一部です。
「同一期への移行:有限性の導出根拠をめぐって」を含む「フリードリヒ・シェリング」の記事については、「フリードリヒ・シェリング」の概要を参照ください。
- 同一期への移行:有限性の導出根拠をめぐってのページへのリンク